デッキビルダーの練習論、あるいは回したことのないデッキについて堂々と語ること

ここ一年、練習が最も大きな課題だった。

筆者は2021-2022年にMPLとして、MTGの発行元のWotCからプロプレイヤーとして報酬を受け取りながら活動していた。

しかし、MTGプロ制度が消滅。プロ制度が残っていたからといって続けていたかはわからないが、いずれにせよ練習時間の確保、確保した時間の有効利用という課題は専業プロとしてプレイしていたときより重いものとなった。

デッキ構築というのはコストのかかるプロセスである。既にできているデッキは様々な側面で最適化されている。それを自分で全部やるわけだから。

プロ制度の消滅は目標の消滅とまではいかなくても、矮小化も意味する。現在の「プロツアー」に過去のプロツアーを重ねて憧れを抱き大きな情熱をもって参加を目指しまた参加するプレイヤーもいる。一方で、過去のプロツアーを知らず、また実態のない「プロ」ツアーは申し訳ないが、私にとってはただのイベントの一つでしかない。交通費は高いし紙のカードも高いし、紙特有の処理を覚えるのもめんどくさいし…オンラインなら喜んで目指すし出るのだが…。

目標の魅力が小さくなり、プロとしてゲームに打ち込む道も絶たれた。(今残っているMTGプロはプロとしてセルフブランディングしているコンテンツクリエイターやサービス業である。)

もうやめてしまおうかと今まで何度も思った。

デッキをコピーして、ある程度自分なりに調整してイベントに出る。そういう楽しみ方もあるだろう。しかし、それは自分の楽しみ方ではない。デッキを作ること。

それがTCGの最大の楽しみであり自分がプレイする理由だ。

練習量は必ず減るし、それは競技のためにデッキを作るという楽しみ方への大きな問題となる。そして、そこまで魅力を感じない目標のために情熱をもって練習量を確保できるだろうか?

とはいえ、MTGのゲーム自体は面白いと思う。プロ制度や目指すべきイベントだけではなくゲームそのものの面白さも熱中してきた要因の一つだ。

また、MTGに全力でコミットし、その過程で得られた人間関係は濃厚でかけがえのないものである。共通言語のひとつを失うとなると寂寥感を覚える。

取り組みは縮小しながらも続けたいというのが本心。しかし、デッキビルダーとして勝ちを目指すプレイスタイルをやめるぐらいなら自分はゲームそのものをやめる。

専業プロとして起きている時間全てを練習に使えた時とは違う。自分の好きなスタイルでゲームを続けるために、少ない練習時間でも環境を理解してデッキを改善できるように、効率よく的確に学びを得る必要がある。

だから、ここ一年、練習が最も大きな課題だった。

2022/11/26の名古屋でのイベント(地域CSファイナルという国内、正確には韓国を含めたエリア最大のイベントで、出場に二段階の予選を勝つ必要がある)から、練習せずにパフォーマンスを発揮するための工夫を重ねてきた。同イベントでは3-4で初日落ちであったが、2023/6/24のイベント(同じ格のもの)ではTOP4になった

MTGパイオニアをプレイしたのはこの二回のイベントのみで、総対戦数はそれらの20回である。借りたデッキをプレイせずに何枚か入れ替えてそのまま対戦した。

練習量を減らしたとき自分のパフォーマンスがどれだけ落ちるか、あるいは工夫によりどの程度落とさずに済ませられるか特定したかった。ほどほどというのが苦手なのでゼロにしてみたのである。

「ちょっと待て、デッキビルダーとして競技に取り組むことがしたいのに、結局コピーデッキを使うのか?」と思われるかもしれないがそれは違う。私が面白いと思うのは、勝つための手段としてデッキを作ることである。勝つための手段が決定される前提として環境を知っていること、つまり環境に存在するデッキを回せることは必要条件だ。

だから、コピーデッキをうまく回したり、細部を変更することを練習なしでどれだけできるか挑戦した。それは今後少ない練習時間で取り組むためのベンチマークとして必要であった。これがうまくできればできるほど、自分は今後もTCGを楽しめる可能性が高い。だから練習こそしていないが環境理解や起こりうる状況の想定、分析は真剣にやった。

大げさに言えば、自分がMTGを続けるための挑戦だったかもしれない。

先日のイベントでのTOP4という上位入賞、それがきっかけの全てではないが「練習」というテーマでのアウトプットをする最後の一押しとなるきっかけである。

練習について語ろう。練習を今まで多くしてきて、それで今回全くしなかった筆者だからこそ書けることもあるだろう。一歩退いてこそ全体像がよく見える。練習しなければわからないこと、練習なしでもわかることを特定してこそ練習は質のよいものになる。

時間がないことを勝てない言い訳にしたくない人、練習を増やすことはできないがもっと先に行きたい人に知見を共有できたら嬉しい。

努力は質と量が揃っていれば高確率で報われる

「努力は必ず報われる」、「継続は力なり」

私の嫌いな二つの言葉だ。ある努力が成功を導くかは質と量の双方に依存するものであり、その片方の量のみを特別視してそれだけが重要であるかのように言うのは悪徳宗教やインチキ健康グッズと同じである。

努力は質と量が揃っていれば高確率で報われる程度に言って欲しいものである。なんとも歯切れが悪いが世界とはそういうものだ。

「〇百マッチ回した」

「〇年やっている」

とか十分な根拠であるかのように自慢げに言う人もいるが、だから何なのか。量について述べても質が伴っているかは話が別である。

練習の質というのはあまりに軽視されている。TCGはことさら、複雑で明確な解が出せないものであるからこの傾向が強い。

どこかから全知全能の神が「ゲーム理論で求まる最適点はここで、お前はこれだけ離れていたぞ」と教えてくれるわけはないので、自分の感覚で良かったかどうかを判断する必要があるわけである。

人間というのは厄介にも様々なバイアスを持ち、あるものをあるように見ないものである。都合のいい情報ばかりを偏って集める確証バイアスという性質がある。試行をすれば何かしらの発見があり、それを根拠に、さも練習により成長したと感じるのである。

人間そんなにうまくできていない。本能のままに食べれば太って病気になるし、やりたいことをやりたいようにやれば各種の依存症に陥り、そして感じたままにデッキをいじると強くしたつもりが弱くなっている。

努力は無駄なときもあるし、なんならマイナスになることすらある。

人間その程度のものである。

主に狩猟採取を通して進化してきた人間の脳が現代の複雑なタスクに適しているわけがない。あなたも私も本能や感覚の部分は猿と大差ないのだ。それが工夫もせずただ惰性で"努力"を続けているだけで報われるなんて烏滸がましい。

練習した気になっているだけ

練習量や試行回数の神聖視を散々否定したが、とはいえやはり練習量も必要ではないか。逆もまた然りで、質のみを見て視野狭窄することもまた誤り、と言われるとその通りである。

では練習量はどの程度必要か?練習時間からどれだけの練習が可能か逆算してみたい。

5マッチや10マッチ練習すればそのデッキのマスターを名乗れるか。俺は名乗るぞ。名乗ってやる。そんなことを言ったら反感を買うだろうか。じゃあ100マッチやっていればいい?それとも200?

その前にTCGは対人のゲームである。

自分のデッキの理解(相手が妨害してこなかった場合や相手の非公開領域のカードがない詰め将棋のような状態で最適な選択ができる)だけではなく、相手がどう動くか解ったうえでの最適な動きを考えることが求められる。

だから「デッキAのプレイがうまい」ことは、環境デッキB, C, D, … に対して「AでAに対して」、「AでBに対して」、「AでCに対して」…のプレイがうまいことが包含されている。デッキBがうまく回せないのに、デッキAを使ってデッキBに対していいプレイができることなどあるはずもない。

本当に勝ちたければ「今の(あるフォーマット)の(あるデッキが得意)」という状態ではなく「今の(あるフォーマット)が得意」という状態を目指すべきだ。

そういう観点で整理してみる。そもそも全体で何マッチの練習が可能であるか。仮にセットのリリースからイベントまで4週間があったとしよう。平日に2時間、休日に4時間練習できるとする。専業プロではない一般プレイヤー、つまり大半の人や、専業プロを続けようと思っていない筆者自身の今後の状態だとその程度だろう。30分あたり1マッチだとすると、144マッチ分の時間がある。

では144マッチ、オンラインでランダムな相手と対戦したとして、仮に相手がイベント本番と同じデッキの分布と同じ確率だとしよう(実際は違って、本番ほど競技志向の相手に当たるわけはないのでよい方に解釈している)。

先日のイベントのものを例とする。

MTGJP公式Twitterから引用

パイオニアで有力なデッキタイプは種類が多く、10以上存在する。ここで144に使用率をかけると最多のラクドスミッド相手とは33.5マッチとそれなりの数の対戦ができる。しかし10番手のグルール機体(TOP8にも入った必ず対策する必要のあるデッキ)には3.2マッチ、また使用者2名の期待値だと1回の対戦しか経験できないはずのボロス召集もTOP8に入っている(イベントで突然現れたオリジナルデッキではなく、それなりに話題になったデッキなので、認識外の存在で練習が不可能だったものではない)。

仮に練習量を倍にしても(それができるかはさておき)せいぜい6マッチ程度のデッキと本番で勝ち上がれば当たるということだ。現実的にこれを量で解消することなど不可能だ。また、本番と練習での相手の分布は異なるうえに期待値通りにマッチするわけがない。特定の相手に一度もマッチしないまま本番へいく可能性が無視できないことは、引きたいカードを引けずに負けた経験を幾度となくしてきたカードゲーマーの読者諸兄に改めて説く必要はなかろう。

「5マッチでは理解できない」ではなく、「5マッチ以下でも理解しなければいけない」のである。

こう考えると、「本当にちゃんと練習したと言える人などいないのではないか」という気がしてくる。無知の知という言葉のように、わかっているつもりになっているよりは、わからないことがわかっているほうがよい。

「〇〇とのマッチをもっと練習しておけばよかった」

とか

「〇〇(別のデッキタイプ)もちゃんと試せばよかった」

なんて意見がイベント後に反省会をすると軽々と出るのを何度も見てきた。

しかしそれは言うほど簡単ではない。起きてる時間の全てを費やして練習量を数倍にしたところで、目当ての事象に遭遇していたかわからない。

試行回数至上主義は自分の失敗から目を逸らして現実逃避するための視野狭窄である。有限な時間の中で試行回数を(例えば倍程度に)増やしただけで改善できるなんていうのは、後知恵バイアスに増長された楽観主義者の愚かな傲慢だ。大抵、本質的な問題は練習時間が少なかったことではなく、本当に練習するべき内容に考えが至らなかったことにある。

大して回していないデッキを堂々と語る必要

もしかしたら、同じフォーマット、同じデッキを使い続けるのを好む人からすればそれは違うと思うかもしれない。しかし、アップデートの効率はやはり重要であり、プレイをしていれば知らないデッキに当たることもある。初めて見るデッキに当たって、何をされるかわからず翻弄されているうちに負け、なんて嫌だろう?

また、同じデッキを使うと決めてそこにリソースを集中させることは、別のデッキというベストな選択の可能性を捨てることである。そういう取り組み方をするプレイヤーを否定はしないが、私は自分がそういう前提を持つことは許容できない。

回したことのないデッキを堂々と語る技術はカードゲーマーの基礎能力であり、アスリートの筋力のようなものだ。相手のサイドボードの後のデッキや初めて見るデッキの動きを予想するのも、体験したことのない60枚の振舞いを予測する点で同じだ。自分のサイドボーディングを考えるときや、デッキを調整するとき、検討をつける能力も必要な基礎能力は共通している。

そしてそれが最も必要であるのがデッキビルダーであり、それがデッキビルダーとして競技に臨むことを好む私がこのテーマを書いている理由でもある。競技プレイヤーとしてのデッキビルダーの力は仮説検証をより速く効率的に回すことに現れる。よりよい仮説を立てて、良し悪しを効率よく評価することが必要である。さきほどの144回という試行の中でいくつのデッキを試すことができるだろうか?

私は自分の強みは損切りがうまいことであると自負している。人は自分が一度信じたアイデアにしがみつこうとする傾向がある。しかし、私は作ったデッキが悪いものであれば、大抵5回も回せばアイデアを棄却できる。これまで世界になかった自作のオリジナルデッキを効率よく評価できること、筆者はそれが自分のビルダーとしての強みであると自負している。悪い仮説をより少ない対戦回数、あるいは対戦する前のカードを並べた段階で棄却できれば飛躍的にデッキの開発効率は上がる。

よりよい仮説(デッキ案、改善案)のために回したことのないデッキを評価する能力が必要である。効率よい検証のために、回したことがない、とまではいかなくとも、少ない試行から多くを学ぶ必要がある。加えて様々なデッキへの相性だ。勝ちを目指すならば有力なデッキとのマッチがどうなるかも仮説と検証の各段階を通して考慮するべきである。それを考えるためには前提として他のデッキについてよく知っていること、それらにどう対抗すれば勝てる可能性があるか仮説を立てることが必要である。優れたビルダーであるためにはまず優れたコピーデッカーであるべきである。

練習の質を上げるために

やみくもで非生産的な試行回数至上主義から脱却し、有限なリソースを生産的な練習に割り振ろう。

何が必要か。まず、問題を知ること。
自分が何をわかっていないかを特定すること。判断のゲームでは勝率を最大化する戦略を取るのが目的である。それができないならば問題、その原因を潰すのが解法である。練習は問題を解決するためにある。問題の特定が第一に必要。問題を知り、それを解決することにリソースを集中させれば問題は練習の質で解決できることもある。

そして、世界をあるがままに見ること。
わからないことはやってみて、その結果として得られた情報から判断を下す。しかし、人間は様々なバイアスから世界を歪めて認識している。情報から前提を作り、前提から結果を導く過程の健全性のためにはこのバイアスを取り除かなければならない。右に弾が逸れる銃は少し左に向けて撃つだろう。人の認識もこれと同じでどちらに逸れるか把握しておいて補正する必要がある。

本記事の残りでは筆者の練習の質を上げるための世界の見方や取り組みについて共有したい。

あなたの持ってるリソースが144より大きいか小さいかわからないが、有限なリソースをよりよく分配する手助けになれば幸いである。

また、金銭と時間を使うに値するか判断しかねる読者の参考のために過去記事のまとめを置いておく。

結構いいことを書いて結構評価されているのがわかっていただけるはずである。

枠を作り、埋める

人はある程度前もって認識している概念に物ごとを当てはめて理解するものである。当てはめるべき枠が歪んでいれば、当然認識も歪む。物がそうあるという概念の枠とそれをどう埋めるかという観点で以下述べる。

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おもろいこと書くやんけ、ちょっと金投げたるわというあなたの気持ちが最大の報酬 今日という日に彩りをくれてありがとう