マガジンのカバー画像

月と陽のあいだに

238
「あの山の向こうに、父さまの国がある」 二つの国のはざまに生まれた少女、白玲。 新しい居場所と生きる意味を求めて、今、険しい山道へ向かう。 遠い昔、大陸の東の小国で、懸命に生き…
運営しているクリエイター

2023年8月の記事一覧

月と陽のあいだに 229

月と陽のあいだに 229

落葉の章ハクシン(10)

 白玲は、力が抜けたように椅子の背にもたれて、ぼんやりと空を見つめていた。隣に座ったシノンがその手を握った。そんな二人を守るように、ナダルがじっと立っていた。

 広間に満ちていた淡い光が赤みを帯びて、窓際に置かれた香炉の影が、長く尖って床に伸びた。
「私、信じたくなかったの。ハクシンが私を嫌っていること」
 ようやく我に返ったように、白玲がぽつりとつぶやいた。
「私は

もっとみる
月と陽のあいだに 228

月と陽のあいだに 228

落葉の章ハクシン(9)

「……直接手を下さなくても、あなたは立派な人殺し。一体、あなたのどこが優れているというの?」 

 白玲の言葉に、アンジュは直立したままうなだれた。皇太子は、呆けたように立ち尽くしていた。
「ハクシン、アンジュに命じて白玲を襲わせたことに相違ないか?」
 皇帝が念を押した。
「アンジュに命じたわけではありません。アンジュは私が白玲を憎んでいると知って、私の心を繋ぎ止めるた

もっとみる
月と陽のあいだに 227

月と陽のあいだに 227

落葉の章ハクシン(8)

 叩きつけるような白玲の言葉に、ハクシンは初めて顔色を変えた。

「あなたに、私の何がわかるっていうの?」
 余裕のある笑みが、ハクシンの顔から滑り落ちた。
「私は自分の夢を叶えるために、自分の足で歩いていくことができなかった。そのもどかしさが、あなたにわかる? 友だちもなく、空想の中でしか自由に生きられない悲しさが、わかる?
 あなたを見ていると、本当にイライラする。あ

もっとみる
月と陽のあいだに 226

月と陽のあいだに 226

落葉の章ハクシン(7)

「……それなのにあなたったら、ろくな防備もしないのだもの。頭が悪いだけじゃなく、詰めも甘いのよ」

 蒼白になった皇太子が、ハクシンを黙らせようと手を伸ばした。
 ハクシンはその手を振り払った。

「私はずっとネイサン叔父様が好きだった。それは、叔父様だけが本当の私を見つけてくださったからよ。
 愚かな大人たちは、私の見かけに騙されて、なんでも言うことを聞いてくれた。でも

もっとみる
月と陽のあいだに 225

月と陽のあいだに 225

落葉の章ハクシン(6)

 ハクシンを抱きしめて、一番の被害者は自分の娘だと言い募る皇太子。
 それを見る皇帝の視線が、さらに冷ややかになったのは明らかだった。

「アンジュ、そなたは白玲皇女を嫌悪して排除するために、ハクシンを誘惑して金を引き出し、自分が疑われたのでハクシンに罪を着せようというであろう。守るべき主人に手を出して、己の意のままにしようなど、護衛にあるまじき行為ではないか」
 皇太子

もっとみる
月と陽のあいだに 224

月と陽のあいだに 224

落葉の章ハクシン(5)

 「違う」と叫び続けるアンジュを制して、皇帝はハクシンに目を移した。

「ハクシンよ。そなたが幼い頃からネイサンを慕っていたことは、余も知っていた。だがそれは、筝の師に対する、あるいは身近な年長者に対する淡い憧れであり、成長すれば己の立場を弁えるものと見守ってきたのだ」
 ハクシンは大きな目を見開いて、じっと皇帝を見つめている。
「そなたの容姿の美しさは、『月蛾の至宝』と

もっとみる
月と陽のあいだに 223

月と陽のあいだに 223

落葉の章ハクシン(4)

 目を伏せたアンジュの傍で、ハクシンは青ざめた顔をしていた。
「アンジュに問う。そこまで執拗に白玲殿下のお命を狙った理由は何か?」
 長老の声が途切れると、広間には沈黙が降りた。
 直立の姿勢を崩さないまま、アンジュは顔を上げた。
「それは……白玲殿下の存在が、皇家の汚点であるからです」
 居並ぶ人々が息を飲み、皇帝の目がわずかに細められた。

「亡きアイハル殿下のお血筋

もっとみる
月と陽のあいだに 222

月と陽のあいだに 222

落葉の章ハクシン(3)

「近衛士官で『目と耳』でもあるアンジュを使ってオラフに情報を与え、そなたを害するように仕向けたのはハクシンだ。直接手を下さずとも、ネイサンと姫宮、それにトーランの命を奪ったことは看過できぬ。ハクシンには相応の罰を与える」
 皇帝の声に迷いはない。白玲は改めて姿勢を正し、皇帝に拝礼した。
「此度の夫の死については、私にも責任がございます。私一人でオラフの凶行を止められるとい

もっとみる
月と陽のあいだに 221

月と陽のあいだに 221

落葉の章ハクシン(2)

 医学院での襲撃事件の後、皇帝は『目と耳』を使って、逃げたオラフの仲間を追った。皇帝の『目と耳』は、それぞれ市中に子飼いの間者がいる。それぞれがどんな間者を使っているかは、必要以上には伝えない。
 それが、今回は勝手が違った。オラフの供述をもとに、『サージ』の人相風体や立ち回りそうな場所を皆に知らせ、サージの捕縛を急いだ。しかし、どこを探してもサージはいない。まるで『目と

もっとみる
月と陽のあいだに 220

月と陽のあいだに 220

落葉の章ハクシン(1)

 御霊祭りが終わる頃、ネイサンの墓所が整い、納骨の儀が行われた。
 白玲は、ニナとアルシーに付き添われて、墓所に夫と娘の遺骨を収めた。墓前に深く拝礼した後、白玲は「することがあるから」と、月蛾宮に向かった。

 白玲は、皇帝に拝謁を願った。
「久しぶりの外出で疲れたであろう。ネイサンも姫宮も、これでゆっくり安らぐことができる」
 皇帝は、ようやく前へ進み始めた白玲を労った

もっとみる
月と陽のあいだに 219

月と陽のあいだに 219

落葉の章追憶(3)

 夏の盛りの華やかさもないまま、月蛾国は秋を迎えようとしていた。

 ネイサンの書斎へ入った日から、白玲はようやく外へ出られるようになり、少しずつ元気を取り戻していった。ずっと薬湯と粥ばかり口にしていた白玲が、好物を食べたいと言った時には、邸中が生き返ったように動き出した。

 長く閉ざされていたネイサン邸の門が開かれると、思いがけない弔問客が訪れた。
 皇后だった。簡素な黒

もっとみる
月と陽のあいだに 218

月と陽のあいだに 218

落葉の章追憶(2)

 トカイに手渡された書き付けに目を落とすと、懐かしい文字が並んでいた。
 あの頃、ネイサンが一番熱心に進めていたのは、ルーン川の水運の自由化だった。議案の下書きには、至る所に細字の朱が入れられ、何度も何度も考え直したことがうかがえる。
「この子が大きくなる頃、この国がもっと豊かであるためにどうしたらいいか。この頃はそればかり考える」
 白玲のふっくらしたお腹に手を当てて、ネイ

もっとみる
月と陽のあいだに 217

月と陽のあいだに 217

落葉の章追憶(1)

 夫の遺骨を抱いて邸へ戻った白玲は、床から起き上がれなくなった。
 流産の傷も癒えぬままに、冷たい仮墓所で寝食を忘れて過ごした時間が、白玲の体を蝕んだ。何より、深い後悔が白玲の心を切り裂いた。こんなつもりではなかったのに、と。

 白玲は心も体もボロボロのまま、薄暗い部屋の中で夜も昼もなく、眠るともなく横たわっていた。
 火葬場での出来事を知った皇帝は、白玲を片時も一人にしな

もっとみる
月と陽のあいだに 216

月と陽のあいだに 216

落葉の章山並み

 岳俊が輝陽国へ戻ったのは、貴州府の町並みに初夏の日差しが降り注ぐ頃だった。この日を待ちわびていた陽淵は、報告に訪れた岳俊を労った。
 白玲との再会や月帝との非公式の会談、今後の交渉の窓口が白玲夫妻になることなど、予想以上の成果といえた。

 だが、白玲の手になる返書を読み終わると、陽淵は眉間にしわを寄せた。
「山の部族への不可侵を条件とするとは、予想外だった。アイハルの一件をも

もっとみる