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月と陽のあいだに 218

落葉の章

追憶(2)

 トカイに手渡された書き付けに目を落とすと、懐かしい文字が並んでいた。
 あの頃、ネイサンが一番熱心に進めていたのは、ルーン川の水運の自由化だった。議案の下書きには、至る所に細字の朱が入れられ、何度も何度も考え直したことがうかがえる。
「この子が大きくなる頃、この国がもっと豊かであるためにどうしたらいいか。この頃はそればかり考える」
 白玲のふっくらしたお腹に手を当てて、ネイサンは微笑んでいた……。
 白玲の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私の考えが足りなくて、大切な殿下を死なせてしまったの。どう謝って償ったらいいかわからない……」

 トカイが静かに声をかけた。
「殿下はとっくに君を許していらっしゃる。だからこそ、君を守りにいらしたのだろう?」
 白玲はたまらず、嗚咽を漏らした。トカイは黙ったまま、白玲が泣き止むのを待っていた。

 それから、どれほど時間が経っただろう。
 声が掠れるほど泣いた白玲は、夢から覚めたように顔を上げた。
「君が今手にしているのは、殿下のお仕事のほんの一つに過ぎない。殿下の夢と情熱を誰よりもよく知っているのは君なんだ。謝るというなら、きちんと生きて、あの日から止まったままのたくさんの施策を前に進めるのが、君に残された仕事だろう?」
 白玲はじっとトカイを見つめた。
「殿下の代わりに、今度は私のそばで一緒に仕事をしてくれる?」
 鼻声でたずねると、トカイが笑った。
「もちろんさ。ここをクビになったら、私は路頭に迷ってしまうからね」
 ネイサンを失ってから、何も映していなかった虚な目に、ようやく光が戻ってきた。
「君が殿下ほど優秀じゃないことは、とっくに知っている。私たちは、殿下の弟子だったんだからね。でも、君はいつでも根気よく努力を続けてきた。それに一人で無理なら、助けを求めればいいんだ。私だってカロンやヤンジャだって、喜んで協力するよ。
 もう十分眠っただろう? そろそろ起きて働く時間だ」
何度も頷いた白玲の涙は、もう止まっていた。

 ネイサンを失ったのは五月の初め。それから雨季を迎え、駆け足でやってきた夏も終わりに近づいた。まもなくユイルハイにも秋風が立つ。
 この年、月蛾国は数年ぶりの冷夏に見舞われた。
 暗紫山脈を越えて吹く南風が弱く、北の海で生まれた雲が陸地に居座って雨が続いた。稲の花が咲く頃に、カラリとした晴天が続かなければ受粉ができない。国の南部の水田では、実の入っていない青い穂をつけた稲が、湿った風に揺れていた。

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