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自分と人との比較は一種の自傷行為。

わたしにはとても優秀な友人が何人もいる。某有名高学歴な大学を卒業し、昔からの夢だった職についてバリバリ働いていたり、国家公務員となり二馬力でガンガン貯蓄を貯めていたり、大学院を出て資格を何個も取り、子育てしながら働いていたり。

わたしは友人達を心から尊敬してる。だが1回も妬まなかったか、羨んだことは無かったかと言われるとそうではない。

それの要因の一つとしては自分は大学を出て、学んだことが活かせる医療関係の仕事について、それ自体はとても向いていたと思うし毎日学びと変化がある環境が楽しかった。だけど、年収が皆より低かったのだ。周りの子は同世代よりも高年収でキラキラして見えた。でも、わたしは皆より残業も少ないし何より仕事に誇りを持っていたからその僻みみたいなものはすぐ消えたから負の感情をずっと燻らせる事無く済んだ。

そして、30歳に近づくにつれ、みんな様々なものに苦しめられもがいているように感じる。

パートナーがいるかいないか。

結婚しているかいないか。

子供がいるかないないか。

2人目はいるかいないか。

子育ては助け合っているのか。

年収がどれくらいか。

家族仲はよいのかどうか。

あげたらキリがないし細かくしたらもっとある。いつだって隣の芝生は青いのだ。

本来SNSでこんな感情を抱く必要も無いのに、不要に周りと比べたくなくても情報が入ってきて、無意識レベルで蝕んでいく。

人と比べる事に蝕まれて行くのは生きづらさ、一種の地獄の始まりだと感じる。自ら自己肯定感を下げて自らに欠陥があるように感じる。新手の自傷行為ではないか!

本当に、自分はそんなに不幸なの?

そう考えたら違う人はいっぱいいると思うし自分で決断した事の積み重ねだからとある種の諦めみたいなものもつくのでは無いかと思う。

自分の人生と人の人生、それぞれに天国と地獄がある。みんな何かに幸せで、みんな何かが地獄なのだ。

わざわざ人と比べて自分の劣ってるところなんて探す必要が無いし、見下して後に自己嫌悪になる必要も無い。

情報過多になりつつあるからこそ自分の幸せを見失いがちだけど、自分の好きを沢山沢山集めて見つめて暮らして行けたらもっと楽しいのにと思う。

だからわたしは明日も幸せと沢山の好きを集めて暮らすのだ。

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