見出し画像

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んで


『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本

この本は、イギリスで過ごす著者、ブレイディみかこ氏が、息子と経験したエピソードについてまとめた本である。イギリスという土地で生活する中での人種の違い、生活する場所で感じる階級の格差などを身近な実際のエピソードを通じて、考えることについて描いたものになっている。

なぜ私がこの本を読んだのか

実のところ、私がこの本を読んだのは、自分が読みたかったからではない。
私が読んだ理由、それは、内定をいただいた会社の研修で、読書課題なるものが出され、私がたまたまこの本を選んだから、ただそれだけであった。

この本からの学び

そのため、私はこの本に大層な興味を抱いていたわけではなかった。しかし、読んだ後こうしてnoteを書いているのは、この本から感じることがいくつかあったからである。この記事では、私が感じたこと、学んだことをいくつか紹介したい。

1. 距離を感じる社会課題は、日常に潜んでいる、ということ

「人種差別」や「階級格差」は、その単語を聞くと、大層難しい問題で、自分とは関係のないような距離のあるものに聞こえる。特に、日本では、今でも日本人という言葉で表される人の容姿は簡単にイメージできるし、(既にそんな状況はとっくに過ぎ去ったが)一億総中流のような意識がいまだに人々のなかに残っている。そのため、他の国に比べても、上記のような社会課題は、自分と距離の遠いものに感じることが多いのではないだろうか。

この本に登場する母と息子は、全くそうではない。むしろ、日常でこの二つの問題にぶち当たりまくるのである。息子は、中学に入って間も無く、「ファッキン・チンク」(アジア人に対する差別的な発言)と、叫ばれたり、同級生に「春巻きを喉に詰まらせたような東洋人」と言われたりする。
また、水泳の大会では、公立中学と私立中学で、観戦しにきた親が座れる場所を指定され、公立の保護者はぎゅうぎゅうに座る一方で、私立はスペースに余裕があったりする。また、公立の中でも、制服を買い替えることができなかったり、昼食に使うお金がなくて盗みを働く学生がいたりと、保護者の階級が、子どもたちの生活にダイレクトな影響を与えることが、見える形で現れるのである。

私は、実際にこの景色を見たわけではないが、文章で読んだだけであるにも関わらず、小さくない衝撃を受けた。少なくとも、私が中学生の時にこのような経験はなかったからである。

しかし、だからといってこのような課題は、本当に日本に存在しないのだろうか?

人種差別について

まず、人種差別について考えてみる。なぜ、私が中学生の時に人種差別の経験がなかったのか。これは、比較的簡単な問題である。それは、私が日本で生まれた日本人で、日本における特権階級だからである。

日本には、人種差別がないといった発言をする人が一定数見受けられるが、それは間違いであると私は考える。自分が生まれ育った国家と、自分自身のアイデンティティが一致する時、人種差別に遭遇しないのは当たり前だからである。つまり、「日本人でいる限り、日本で人種差別を受けることがない」のは自明であり、その事実が、日本には人種差別がない、もしくは少ないことの根拠にはならないのである。

人種差別は、住んでいる国家や文化と、自分自身のアイデンティティが異なるときに往々として起こるものなのではないだろうか。つまり、日本で住む私が注目すべき、日本で起こっている人種差別は、日本人に対してではなく、在日外国人や、従来の日本人像に当てはまらない人に対するものであるべきである。

グローバル化が進むにつれて、国際結婚も増加し、見た目が従来の日本人と異なる人でも、日本国籍を持ち、日本で生まれ育った人は多くいる。また、日本に帰化して日本国籍を持つ人もいるのである。これまで、日本人であるか否かを見た目で判断することに対して罪悪感を持つ人は多くなかったのではないだろうか。しかし、もし、この本に登場する、見た目だけでアジア人差別発言をされる息子に共感し、怒りを感じるのであれば、私たちも日本での人種やアイデンティティに対する態度を改めなければいけないのではないだろうか。

私たちは、海外の遠い人種差別に対して、問題であると感じる一方で、日本における、従来の日本人像と異なる容姿を持つ人に対して容易に外国人だと決めつける態度にあまりにも寛容ではないだろうか。

人種差別は、日本にも、そして、自分の中で当たり前だと感じている部分にも、潜んでいるのである。

階級格差について

そして、次に、階級格差についてである。人種差別と同様に、私は中学に通っている当時、特に階級の格差を感じることはなかった。制服を買い替えることができずに困っている人は、少なくとも周囲の友人にはいなかったし、私立と比較するようなこともなかったからである。

しかし、それは、ただ単に見えなかっただけ、であることを大学入学時に知る。

私は、東京の私立の大学に進学した。と、同時に、私の過ごしていた世界がどれだけ狭かったかを知ることになる。

大学で出会った子の中には、アルバイトを人生で経験したことがない子たちも多かったし、長期休みごとに家族で海外旅行へ行く子も多かった。着る服も、鞄も、全てが少しずつ(もしくは格段に)いいもので、東京都内に家を持っていたり、地方でもその地域で最もいい家に住んでいる子が大勢いたのである。

一方で、東京でアルバイトを通じて出会う人たちの中には、一人暮らしをする家を借りるだけの給料を得ることができないために、シェアハウスで暮らす人も存在した。初めてホームレスを間近で見たのも東京でだった。水商売をする人、立ちんぼという存在を実際に見たのも大学生で初めてだった。

これらの経験から、階級の差は、生活様式の違いや、文化の違いで、そもそも見えにくいということを知った。

本に出てくるような、階級の狭間は、実は意外と少ないのだと思う。明確に、意識的にではにけれど、経済的、文化的にアクセスできる事柄や地域は別れていて、それが故に、階級の違いや文化の違いを実感することが少ないまま、親から受け継がれる階級で、子供も生活するのである。階級の再生産だ。

本に出てくる子どものように、昼食代(給食代)が払えない子どもも増えているというような話を聞く。こども食堂といった民間の活動が活発になってきているのは、他でもなく、「食べられない子ども」が増えているからである。

階級の狭間にいない限り、階級の違いや、貧困の実情を身近に感じることは難しい。しかし、確実に日本でも貧困は広がっているのである。身近な貧困の現状に目を向ける、意識を向けようとすることが重要になっているのではないだろうか。

2. 自分にとっての正解を見つけるための努力が必要であるということ

上記のような、具体的な問題がいかに日常に潜んでいるのか、そしてどのように向き合うのか、という内容も、非常に考えさせられる内容だった。しかし、私がこの本から得た最も重要な学びは、自分にとっての正解を見つける過程の重要さである。

世間での正解に流されがちの私たち

SNSが発達し、持ち歩けるスマホでいつでもインターネットにアクセスできるようになった。これによって、私たちは、常に不特定多数で匿名の意見と情報に晒されるようになったのである。

これにより、私たちはいつでも好きな情報を得られるようになった。一方で、常に正しく見える意見に触れるようになったのである。

その結果、私たちは、十分な時間をかけて自分の意見を作り上げるよりも、簡単に得られる他人の意見の中で、最も心地よいものを選択するようになったのではないだろうか。

何を基準としているかわからない、漠然とした「良い」という評価に基づいた選択があまりにも多くなった気はしないだろうか。

就活には、就活偏差値という言葉が誕生し、自分の興味や関心を十分に分析せずに、ネットに出てくる、自分が知っている会社の選考を受ける人たち。ネットニュースの真偽を十分に確かめずに、有名人にアンチコメントを送る人。

どうにも、自分じゃない誰かに主導権を渡している気がならないのである。しかし、世間一般の判断に合わせるのは、安心で、楽だから、ついつい、そうしてしまう。

この本に出てくる母と息子は、そんな私たちに、自分たちなりの答えを出す大切さを教えてくれるのではないだろうか。

進学する学校、多様性の意味、アイデンティティや自分の性的指向について。

進学する学校は、世間的にはもちろん、名門校がいいだろうし、SNSで見る多様性は、さまざまな人種が一緒のコミュニティに仲良く写っていることだし、アイデンティティは一つの方が綺麗で、性的指向は、まだまだヘテロ(異性愛)がメジャーである。

でも、彼らは、どれも、世間的な正解を自分たちの正解として受け取らなかった。その全ての選択が、十分な議論の上に成り立っていたわけではないとしても、自身の正解として落とし込むまでに、時間をかけたことに私は意味があると思う。

多様性は、仲良く全ての民族が過ごすだけではない。理解できない部分も含めて話し合いをすること、理解できない部分を尊重すること、時と場合によっては、仲良くすることではなく適切な距離をとることが最善の答えにだってなりうる。

一つ一つの言葉と行動をじっくり考えるには時間が到底足りないかもしれない。時には素早い判断のために世間の、他の人の言葉が重要な時がある。

しかし、自分にとって重要な判断が必要な時、私は彼らのように、時間をかけて、自分にとって納得がいく答えを出すことが重要だな、と感じた。

自分の人生は、他人に見せるのではなく、自分のためだけのものだから。

終わりに

こんな、大層な文章を書いてしまったが、紹介した本はとても読みやすくて面白い本なので、是非一度読んでみてほしい。

イギリスで生きることには、そうなんだ、と初めて知る面白さがあるし、息子の学生生活は、かつて自分が経験した中学生らしい苦悩がある。息子の姿に、かつての自分を重ね合わせながら、そして、遠いイギリスへの思いを馳せながら、今年初の読書の候補として、おすすめの一冊だ。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?