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どんな人生でも、歩んできた道、それが「自分の人生」

こんにちは、プロジェクトマネージャーであり、2児の母でもあるHimariです。

ほんっと、私の人生ってなんだったんだろう…って思うほど、山あり 谷ありの人生でした。そして、これから先も???

いや、そんなことはさせたくない!!!

だって、今や人生100年って言われる時代。まだ半分もいってない!

男児2人を育てながら、バリバリ働く所謂、キャリアウーマンって感じだけれども。しかも、シングルマザーときたっ!

周りからは凄いね、大変だね、大変な時はいつでも助けを求めてね!って言われるけれど、そんなに凄いものでもなんでもない。2人の子どもを産みたいと望んだのも私だし、シングルマザーになったのも私の選択だし、プロジェクトマネージャーとして働く選択したのも私自身なのである。

だから、そには決意もあったし、責任もある。そしてこれからの人生を決めるのも自分自身である。

幼少期の私。

とある田舎町で生まれ育った私。ほんっとに山があり、川があり、自然にとても恵まれていました。探検や木登りなんて日常茶飯事!笑。

幼少期の私は共働きだったこともあり、赤ちゃんの頃から保育園に預けられていた。だけど、ほとんど記憶はない。それでもよく覚えているは保育園の裏口の柵から10歳近く離れてる姉が学校帰りに迎えに来てくれるのを待っていたことだ。

小学生の頃の私の記憶と言ったら、4年生から6年生まで続けたジュニアバレーで苦しい練習に耐えたことも、試合に勝ってチームメンバーと喜び合ったことも今となっては素敵な想い出がほとんどである。

中学生の頃の私。やっぱり恋愛だろうか。恋愛と言ってもとってもとってもピュアなもの。初めてお付き合いした人のことはよく覚えている。1年生のときに仲良しグループにいた一人である。だけど、いざお付き合いって言うか、公式に両思いって認定?されてからは、恥ずかしすぎて以前のように話せなくなった。ちょっとした都会(この頃の私たちにしては)に1時間に1,2本しかない電車に乗ってデートに行ったことが1回あるくらいだ。多分、そこで初めて繋いだ手はとてもとても恥らしかった。

青春時代の私。

中学時代はいじめられっ子の時期も。
自分で言うのも何だが、勉強も運動もそれなりにできた私。先輩にも可愛いがられ、後輩からも先輩先輩ってファンがいた。それを妬んでなのか真相は知らないが、当時入っていた吹奏楽部内でイジメにあったのだ。音楽室に行っても無視、教室で声かけても無視。吹奏楽部のほぼ全員からだった。

でも気も強かった私はそれに向かいかかったのだ!1対大勢で大喧嘩したのだ。大勢に対して大声で食いかかったり、確かつかみ合いにもなったような…。でもその大勢の中には仕方なくって子もいたのだ。次は自分が標的になるんじゃないかって恐れたからだと思う。その件があってから何人かの子が私を助けてくれたというか、真実を教えてくれたのだ。誰が筆頭にやっていたのか、計画的にやっていたことなどなど。吹奏楽部も辞めて昔やっていたバレーボールに転部しようかまで考えた。でも当時身長が低かった私、引退までももう残りも少ない時期だったこともあり、そこに留まったのだ。
でもそれは結局、良かったと思う。段々、友達も私の元に戻ってきてくれたし、その中には今では一番の親友と呼べる友達もいたからだ。後に私の人生を大きく変える人物でもあった。

高校生の頃の私。いろんな形の青春があると思うのだが、私の青春は生徒会に入ったことだった。中学時代、バレーボールをやらなかったことを後悔していた私は身長も人並みに伸びていて、バレー部に入部した。だけど、ブランクもあったし、肩を故障して辞めざるを得なかった。その後は何となく友達に誘われて水泳部に入ったけど、ほぼ幽霊部員だったね。何故ならそんなに水泳は得意ではなかったことと、生徒会の仕事が忙しかったからだ。

1年生の担任から生徒会に立候補しないかと勧められた。興味があったわけでもなく、他に立候補したい人もいなかったから成り行きで立候補することになったのだ。1回目の全校生徒の前で喋ることは、ほんとにほんとに緊張したのをよく覚えている。そこでは会長は決まらず、第2回目が行われたw
2回目の時は強力な相手が出現!!!中学も一緒で男子生徒だった。勿論、その人が生徒会長になった。そして、私のライバルだった女子生徒にも負けてしまったのだ。でも生徒会に入ることにはなり、いろんなことができ、良い経験することができた。
学祭やら体育祭もそうだけど、一番の想い出は何十年も変わらず、昔ながらの制服の変更に携われたこと。当時の今どきってやつになった、たぶん。。ただの紺のブレザーにひだスカートだったのがチェック柄になり可愛くなった。男子生徒も学ランからブレザーにデザイン変更。以前より爽やかになったんじゃないかと。でもその制服に袖を通すことはなく卒業したんだけども。新入生から適応だったから…。

そして、2つ目の青春といえば、やはりここでも恋愛だ。中学から付き合っていた人とは隣の高校だったけど、入学して暫くして振られたのだ(因みに前述に出てきた彼ではない)。それでも彼をずっと好きだった。告白されて付き合ってみたものの、やっぱり彼が忘れられなくて別れたり、先輩に恋したり。友達の間でも誰が誰を好きだとかそんな話ばっかりだったなぁ。

2年生の時、私の人生を変える人物に出会った。その子も仲良しグループの一人だった。男子も女子もいる仲良しグループ。いつも一緒に遊んでいた。でも彼と付き合うことになったのは3年生になってから。続けて同じクラスになったのも運命だったのかも。何となく、いい子だなぁ〜とは思っていたけど、それが好きかどうかはよく分からなかった。でもみんなで今一番気になる人って誰なん?って聞かれて彼の名前を言ったのだ。そこからあれよあれよと話は膨らんで、何故か付き合うことになったのだ。彼にも私のように忘れられない彼女がいた。同じ者同士だね笑。

でもいざ付き合ってみると、息もあってとても楽しい高校生活になったと思う。とっても面白い子だったし、音楽が好きな人だったからその音楽を一緒に聞いた。
何が私の人生を変えたかというと、進路である。当時、キャビンアテンダントになって世界に羽ばたきたいって思っていた私は選択教科は英語を選択していたし、国際学科みたいな大学を受けようと、そのために色々調べもしていた。ただ身長が微妙だったかな。でもそれってただの憧れでしかないことを私は気づいていたのだ。だって、いつも何だか悩んでいたから。
そんな中、彼は確かな夢を持っていた。ある専門職になるんだと。そして、彼のお母さんもその専門職に近い関係の資格を持ったお仕事をしていたのだ。ご両親とも仲良くさせてもらっていたのもあって、凄いなぁ〜なんて考えていた。そして、その彼の意思にも。

そして、三姉妹の一番上の姉に言われたのだ。「何グズグズ迷ってんの?!今決めなきゃ、一生後悔するよ!!!」と。私はその言葉に背中を押されたのだ。当の本人はそのことを覚えているかどうかは知らないけれども。
それともう一人、中学時代の話で出てきた親友の存在。私に「一緒に東京行かない?」と持ちかけてきたのだ。

そこで私は決心したのだ。その資格を取って人のためになる仕事をするんだと。
地元に残ってほしいという両親の言葉をよそに(当時は若かった、今思えば近くの大学に進学しておいても良かったかな…とも)、近くの大学も受けたけど、何とか了承を得て、一校だけ東京の大学を受けたのだ。もしそこが受かったら東京に行く!受からなかったら地元に残ると。

結果、先に地元の大学が決まった。そして東京の大学。。地元の大学の入学金を支払う期限と東京の大学の発表がほぼ同時期だったのだ。仕方なく、地元大学の入学金を払ってくれた両親。そしてその直後に東京の大学の合格が確定したこと。。
でも両親は止めなかった。無駄なお金も払ったのに。大学卒業したら近くに帰ってきて就職する約束をして、許してくれたのだ。感謝してもしきれない。

東京に上京した私。

そして私は、東京の大学に行くために上京した。
ここまでの話、どれ一つ抜けても今の自分はいなかったと思っている。高校時代の彼に出会ったこと、姉に掛けられた言葉、その専門職を選んだこと、東京に一緒に行こうと言ってくれた友達、そしてそのワガママを許して応援してくれた両親。どれひとつ掛けても今の私はいなかったと思う、どれひとつ取ってもだ。

学生時代の私。勉強、勉強、勉強、バイト、勉強、バイトの生活。
裕福とは言えない家庭に育った私はほんの少しの仕送りだけで生活しなければならなかった。勉強が大変だったのでバイトしてない人も多い中で私もできる限りバイトに入ってお金を稼いだのだ。無論、学校の学費は奨学金制度を使い、就職後自分で返していくことになっていた。成績も優秀だったので、金利なしで制度を使う事ができた。
華やかな大学生活を送っていた人もいるだろうけど、私はそれからは程遠かった。でも夢のためなら何の苦痛も妬みもなかった。楽しかったのはバレーサークルに入っていたことだろうか。同じように専門職を目指す人達ばかりの集まりなので気軽に楽しめた。

高校時代の彼とは遠距離恋愛をしていたが、1年くらいだろうか、やはりなかなか会えないことでそれ以上は続かなかった。
恋愛は色々した。でも19歳のとき、運命(?)の人とバイト先で出会った。そう、元オットである。今でも大好きなスノーボードを教えてくれたのも彼。サーフィンに連れて行ってくれたのも彼。今は別れてしまったが、人生の半分近くを彼と過ごした。そして、私が自分よりも大事なものをくれた人。大切な大切な息子たち。

話はズレてしまったが、大学時代は本当に勉強、授業、実習が大変だった。でもそこで頑張った自分がいるから今でも頑張れる自分がいるんだと思う。
歳をとった今でも夢は常にある。それに向かっていつも頑張っている。

そして、卒業して国家資格を取って、その職業についた。
何故その私が今、とある外資系大手企業でプロジェクトマネージャーにまでなったのかはまたの機会に話そう。

長々と最後まで読んでくれた皆さん、本当にありがとうございます。
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