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障害者の“いる”街

 今日、とても不思議な時間を過ごした。肢体不自由の現地人と数時間一緒に過ごしたのだ。おしゃべりしたり、浜辺を散歩したり、一緒に泳いだり。おしゃべりといっても、相手は十分に話せず、なおかつスワヒリ語メインなので、お互いにボディーランゲージとその場のノリで話している感じだけど(笑)

 何が不思議だったかっていうと、彼を取り巻く「ケア」の環境が出来上がっていたこと。日本のようにご立派な社会福祉制度、つまり障害者年金はこの島には存在せず、障害者雇用なんてある訳もない。つまり彼は日々暮らしていくためのお金を稼ぐことは出来ない。おそらく一緒に暮らしている家族が少しのお金を渡しているだけだろう。このような事実を街の人たちは理解している。そして彼の要求に応じて、必要なものを供給しているのだ。それは水や食べ物のようなモノであったり、着替えやトイレ解除などの介護などである。

 実はこのようなことに関して、大学3年次のゼミ論で考えたことがある。日本では障害者に対して障害者年金というものが与えられる。彼の様な障害を持っている人の場合は月に20万円〜30万円程度であろうか。一見、それだけの大金を国から補助してもらって幸せに見えるかもしれない。しかし実情を見てみると、彼らの多くは街に出る機会を与えられず、社会、つまり健常者と交流する機会を与えられず、施設という箱の中に閉じ込められることがほとんどなのだ。どっちが「幸せ」とか言いたいわけではない。実際、「幸せ」というものなんて個人の尺度でしか測れない主観的なものだ。だが、このテーマについて考えている時、少なくとも自分は日本で生活する障害者が幸せかどうかと言うことに関して大きな疑問を感じていたのだ。

 アフリカに来て感じること。それは世界が損得勘定で動いていないということだ。例えば車が壊れてしまった時、多くの人が「大丈夫か?」と声をかけてくれる。もちろん中には手伝ったことに対して見返りを求めている人もいる。だけど、そういうことを求める前に、まず「大丈夫かな」「助けが必要かな」という気持ちが先行しているのだ。実際、手伝ってくれた後にお金を払わなくたって、お礼を伝えれば「おーけーおーけー」と納得してくれる。

 いま日本にはこうしたシステムが必要なんじゃないかと思う。人に対する「優しさ」「気遣い」「ケア」というものは数字で勘定できないものだ。だが今は「〇〇したら××円」という考えが普通になっている。それはつまり「××円くれないなら〇〇しない」「見返りがなかった。〇〇して後悔したよ」という気持ちを生み出してしまう。もちろん、やりがい搾取には反対だ。やりがいだけで誰かに負担を強いること、それは決して言い訳ではない。だから完全にマネをしろとは思わない。だけど少しだけ、損得勘定を抜きにした、誰かが誰かを支え合うシステムを社会に導入できたら、と思う。

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