Takashi Makimoto
今から考えたら、なんだか不思議な時代だったように感じる1980年代。 サブカルチャーが台頭し、世の中には言葉では形容し難い「熱量」が溢れかえっていた1980年代。 その時代に少年期を過ごした私が、様々な偶然が重なり合う中で、黎明期から成長期に向かう「パソコンゲーム開発」の世界に飛び込むことになった過程や体験を記録として残しておくため、ここに連載形式を取りながら書き留めていきたいと思います。
昨年 (2021年) 夏に「黎明期の PC ゲーム開発記」と題して、15本の投稿を行いました。 自分がどのようにしてゲーム開発の世界に入ったのか、どんな状況でゲーム開発を行ってきたのかなど、自分史の一つとして書き残そうと思っていたところ、私が社会人として関わった最初のソフトウェアである、MSX版「ソーサリアン」の発売からちょうど30年という節目でもあったので、思い切って書き残すことにしたのが「あの」連載でした。あれから約半年が経ち、連載の最終回でも触れた「鍵のかかった箱」を
前回の「第14回」は、初めての SFC での開発で中々作業が進まない話と、名古屋での楽しい軟禁生活のお話でした。 最終回は、この連載を書き終えるに当たり感じていること、考えていることを書き連ねたいと思います。 その後のゲーム開発SFC 版のサークの完成のあと、私は2本のゲーム開発にメインプログラマとして携わりました。1本は「へべれけのぽぷーん (SUNSOFT)」で、もう1本は「へべれけのおいしいパズルはいりませんか? (SUNSOFT)」です。 「おいしいパズル」の方は
前回の「第13回」は、SFC版サークを開発するにあたって考えていたことをまとめました。 今回は、その後困難続きだった開発の舞台裏に関するお話です。 勘どころが見つけられないそれまでの開発は、Z80 CPU が搭載されたパソコン上で動作するゲームの開発でした。PC-88 や MSX など、そのハードウェアの特徴はあっても基本的には同じ CPU なので、ソフトを作る上での「勘どころ」のようなものは共通していたように思います。しかし SFC は中々そうはいきませんでした。 開発
前回の「第12回」は、スーパーファミコン (以下、SFC)の開発環境に触れ、サーク(Xak)の移植の方向性を決めたお話でした。 今回は、SFC版サークの内部構造をどんな風に考えて制作したかのお話です。 キャラクタ制御SFC 版サークのキャラクタは、スプライト機能を使って描画しています。こう書いてしまうと「当たり前」という話なのですが、前回の MSX版ソーサリアン の時には、MSX にもあるスプライト機能は使いませんでした。また、それまで主に使ってきた PC-88 にもその機
前回の「第11回」は、MSX版ソーサリアンの開発完了後のお話でした。 今回は、ソーサリアンの後のプロジェクトが始まるお話です。 1990年代前半カオスに満ち溢れていた1980年代が終わり、1990年代に入ると一部で台頭していた PCゲームにも陰りが見え始め、ファミコンに代表されるコンシューマ向けゲーム機の復権がなされた時代のように思えます。1990年には任天堂から「スーパーファミコン」が発売され、また1994年にはソニー・コンピュータエンタテインメントから「プレイステーショ
前回の「第10回」は、MSX-FAN との関わりから MSX版ソーサリアンのリリースまでのお話でした。 今回は、その後のソーサリアンと、その後を私に関するお話です。 「戦国」「ピラミッド」MSX版ソーサリアンに関する商品は本編の他に、「戦国ソーサリアン」と「ピラミッド・ソーサリアン」という追加シナリオがリリースされています。この2本の移植作業がいつ開始されたのかについては、記憶がハッキリしていません。ただ、本編の開発が終了して、そんなに感覚はなかったと思います。間違いでなけ
前回の「第9回」は、PC-88 から MSX への移植に伴う苦労のお話でした。 今回は、雑誌との関わりと新機種への対応のお話です。 MSX-FANかなり早い段階から、MSX への移植を熱望されていた雑誌として「MSX-FAN (徳間書店)」があったようですね。この連載を最初の方からお読みいただいている方はお分かりだと思いますが、私は主に PC-88 ユーザだったので、MSX への移植の話が盛り上がっていることは知りませんでした (偶然にも、新幹線構内の書店で知ることになるの
前回の「第8回」は、プロジェクト開始直後にして最大のピンチのお話でした。 今回は MSX版ソーサリアンの開発に関して考えたことに関するお話です。 MSX の特性以前にも紹介しましたが、当時の私は MSX を触るのは初めてでした。そんな私が PC-88 から MSX へ移植するということは、プロジェクト開始の時点で「ある程度の批判」は覚悟しなければならない、ということを意味していました。 これは当時の私が開発時に書き留めたノートに書かれていたことですが、、PC-88 という
前回の「第7回」は、全てが初めての状態ながらも、プロジェクトをスタートするために準備を始めたお話でした。 第8回の今回は、プロジェクト開始直後に訪れた「最大の危機」に関するお話です。 プロジェクトの目的地を決めるいわゆる「開発環境」については、前回のお話の中でご紹介しました。これはゲーム開発に限った話ではないのですが、作業を行うための環境が整ってもプロジェクトはスタートできません。MSX版ソーサリアンの開発でも同様で、プロジェクトの目的地を決めることが重要です。私の場合は、
前回の「第6回」は、友人の推薦からゲーム開発会社に就職するところまでのお話でした。 第7回の今回は、社会人としての「はじめてのプロジェクト」が始まるお話です。 何もかもが 'はじめて'1990年12月、こんな経緯で愛知県西春日井郡(現在の北名古屋市)に本社を置く「ファルコン株式会社」という会社に就職しました。だた実際の開発作業は愛知県ではなく、大阪市東淀川区にあった「大阪開発室」で行っていました。 一度面接で伺ったことがあったので、事務所がどんな雰囲気なのかは知ってはいま
前回の「第5回」は PC-88 用の「ソーサリアン」という市販のゲームを独自に解析し、その後 16bit マシンへ移行していくというお話でした 第6回である今回は、ゲーム開発会社に就職して最初のプロジェクトが始まる直前までのお話です。 思いがけない電話新聞配達のアルバイトをしながら、X68000 や PC-8801 で動作するソフトウェアを作りためていた頃、一本の電話がかかってきました。それは、すでに三重県四日市市にあった「マイクロキャビン」という会社に営業職として就職して
前回の「第4回」では、ソフトハウスにお手紙を送り、自分専用の「ゲーム用OS」を作るところまでのお話でした。 第5回の今回は、市販ゲームの解析を始めるところからのお話です。 ソーサリアンを探検するすでに「第2回」で、PC-8801 mkII SR以降版の「ソーサリアン (日本ファルコム)」をプレイしていたことを書きました。ご存じの方も多いと思いますが、この「ソーサリアン」というゲームは、1つのゲームの中に15本(+1本)のシナリオが用意されていて、さらにプレイヤーが操作するキ
前回の「第3回」では、N88-BASIC の MON コマンドを使ってマシン語プログラミングを始めたところまでのお話でした。 第4回は、いよいよ本格的にマシン語でのプログラミングにハマっていきます。 分からないことは聞くしかないマシン語(Z80)が少しずつ理解でき、2冊の書籍を読み込んだ結果、なんとなくプログラムを書く方法が分かってきましたが、それでもやっぱり分からない・・・というか、じゃあ「ゲームを作る」ためにはどこから手を付けていいのか「分からない」というのが現実でした
前回の「第2回」では、N88-BASIC で作ったゲームと市販のゲームとの処理速度の違いから、マシン語の勉強を始めようと決意する頃まででした。 第3回の今回は、マシン語の勉強を始めた頃のお話です。 自分のパソコンを買う! 高校生になって、それまでより少しは自由になるお金が増えたのと、これに加えて親の援助もあって、はじめて自分専用の「パソコン」を買ったのはこの頃です。当時、大阪の日本橋は関西における電気製品のメッカで、何軒も回って最安値のお店で「PC-880mkII FR」を
第1話では、はじめてコンピュータに触れ、映画影響を受け「謎の英数字の羅列と格闘」し始めようとするところまでをご紹介しました。 第2話は、プログラムというものを作り始めた頃のお話です。 はじめてのプログラム (N88-BASIC) 1980年代後半、私は中学生になり、英語の授業などで少しずつ理解できる英単語も増えていきました。下敷きの裏側(第1話参照)にある「プログラムに違いない」ものも少しずつ理解できるようになって来ました。また従兄弟の家で触ったコンピュータが、当時 NEC
今から考えたら、なんだか不思議な時代だったように感じる1980年代。 サブカルチャーが台頭し、世の中には言葉では形容し難い「熱量」が溢れかえっていた1980年代。 その時代に少年期を過ごした私が、様々な偶然が重なり合う中で、黎明期から成長期に向かう「パソコンゲーム開発」の世界に飛び込むことになった過程や体験を記録として残しておくため、ここに連載形式を取りながら書き留めていきたいと思います。 その頃の「パソコンゲーム開発」の雰囲気を少しでも感じてもらえれば幸いです。 コンピ