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■noteへのサヨナラ

「note」を読んで(25) 不定期刊

◇ゆく人がいて…

時々僕の駄文にスキをつけてくれ、コメントをくれ、こちらもコメントを書き、返し、スキをつけることもあった書き手の1人が、noteを去った。
2、3日前の書き込みに、「これを最後にしてすべて削除する」と宣言され、確かに彼は消えた。
グーグルで検索するとキャッシュが残っていて、見出し部分は見ることもできるが、note上からは見ることができなくなった。
彼は小説を中心に書き、いくつかの文学賞も何次審査かまでは突破したり、雑誌などの入選経験もあったそうだが、「賞には傾向と対策があり、それに合わせないといけない…」とつづって、noteを去った。
僕もその考えには、同意することを示したところだった。
コチラで何度も僕にアドバイスしてくれている理昭さんに「現代詩手帖ほか詩誌の傾向を分析し、対策すればよい」と言われてきた。
それはわかるわかる、それをやんなきゃ。
でも、自分の書き綴るものは唯一無二のものであり、傾向と対策の結果書けたもの…というのは、入試対策のテクニックのようとも映り、やはり気は乗らない。
ランボーが、中也が、傾向と対策を考えて詩作をしただろうか。
そう思うのである。

noteから消えた彼の文章はきっとどこかに存在するのだろう。いつか、メジャーになる日も来るかもしれない。
それは、僕とて同じだし、そう願って書いているのである。
noteという場は、書き残しやすい存在であり、何人かの他人の目に触れるのは、利点だと思っている。
まだまだ、僕はここで書いていくつもりだ。
とはいえ、「他人の目による、手ごたえある評価、はっきりした結果」がないと…やはり、しんどいだろう。1年余り詩を書き、投稿を続けてきて、それも、わかる。

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