魂を吹き込む
墓標≒まちの終焉?
どこにでもある墓標
以前のnoteで「まちの起爆剤」が自爆して墓標化し、活性化を目指していたはずなのに衰退を加速してしまう皮肉を指摘しました。
全国的にはカタカナの「ア」から始まる呪われた墓標の数々が有名ですが、それだけでなく、全国各地に規模や深刻度は様々ですが墓標は乱立しています。
「みんな」が集い「賑わい」を目指したはずの図書館・ホール・生涯学習センター・体育館などはコンサルが描いた人が溢れるパースやお花畑の市民ワークショップで描いたとおりになっているでしょうか。
見かけ上の稼働率を上げるために大ホールのステージをピアノの練習に使わせる文化施設、スポーツ新聞を目当てに毎日来る市民の数を利用者数365人とカウントする図書館、低質・低価格の農産物直売所と成り下がっている道の駅。これらも膨大な税金を投下してまで行う市民サービスとして正しいのでしょうか。これらも残念ながらプチ墓標の一種です。
衰退した商店街・まちも同じ
中心市街地活性化を目指して電線地中化・車道までインターロッキング舗装・統一された維持管理費のかかるモニュメントや街灯など、関連補助事業などにより整備したにも関わらずシャッター街と化している商店街。
老害とも呼べるドンに支配されたり、自分の顧客を取られるわけでもないのに外部や若者の新しいビジネスの参入を拒絶するまち。
これらも一つ一つの事象は小さいかもしれませんが、そこは墓地と化しています。
行政の経営感覚の欠如が起因
公共施設等を取り巻く問題の根幹は「まちの衰退」です。老朽化・陳腐化などは事象に過ぎず、財政が厳しく対応が困難になってしまっていることも結果論でしかありません。
しかも、実は(全てとは言いませんが)「まちの衰退」を引き起こしている大きな要因は「行政の経営感覚の欠如」です。
「まちのドン」に忖度して真剣にまちと向き合うことを放棄したり、新しいことや外部の血を敬遠して内向きに閉じたり、時代の変化に呼応して生きる力がない地元事業者へ延命措置の補助金を交付し続けたりすることで、限られた経営資源を無駄に浪費するからまちが衰退していくのです。
墓標を踏み台に
津山市
津山市には全国の名だたる墓標のなかでもNo.1に輝くとされるアルネ津山がまちなかに鎮座しています。
津山市では点としてのアルネ津山も大きな課題ですが、なにより中心市街地活性化を目指していたはずのハコモノ・一発逆転・起爆剤プロジェクトでまちなかが更に衰退するという笑えない事態に陥り、かなりの年月が経過しています。
一方でまちみらい公式noteでもたびたび紹介しているように糀や、Globe Sports Dome、たかたようちえんなどの魅力的なプロジェクトを次々と創出したり、FM基金などの実務的な対応策をとるなど、まちに対して真摯に向き合っています。
アルネナイね。。。と嘆いたり諦めてしまってはそこで試合終了です。
決してポジティブな要素ではありませんが「なぜ活性化の起爆剤たるアルネ津山が機能しなかったのか」に本気で向き合えば、そこから得られる経験知は他のまちでは得られ難い貴重なものとなるはずです。そして、アルネに関わった全ての人たちは思い当たる節があるでしょうから、その人数も多いですし、多角的な示唆が得られるはずです。
「高い勉強代」としても高額すぎですし、まちに与えたダメージも勉強代でペイするほど軽いものではありませんが、この経験から「学ばない」ことは許されるものではありません。この現状からどうリアクションしていくのかが重要です。
そうした意味では現在の津山市のスタッフ、民間プレーヤーの方々のリアルな生き方は、全国に向けても大きな希望といえます。
流山市
おおたかの森駅北口の市有地整備事業は、集約換地によって創出された1haの市有地に500人規模のホールを、敷地内の一部の土地を売却・定期借地権を設定することで行政としての財政負担なしで等価交換で整備するものでした。
こちらのnoteでも書いたとおり表面的には優良事例として紹介されていますが、駅前の一等地にありながらエリアの価値に貢献しないどころか、ホールの指定管理委託料だけで約1億円/年のキャッシュアウトをしてしまっています。
こうしたことも影響して、北口駅前広場は無機質な表情を竣工後何年にもわたって晒し続けていました。これも残念ながらプチ墓標と言えるでしょう。
2023年2月に流山市役所の若手職員を中心としたNまちデザインが、この場所で自ら地域のプレーヤーを集め、North Square Marketを開催しました。
税金には一切頼らず、市役所の看板を掲げることもなく(まちみらいも若干ですが協力させていただきましたが)、民間の共感資金と心意気に賛同した地域プレーヤー、更にはそうした大人たちに感化された高校生らの手による手づくりマーケットです。
地域にこだわったプレーヤーの魅力的なコンテンツもあり、大盛況となりました。
あくまで「暫定的な未来」でしかないですし「一瞬の輝き」であることを忘れたはいけませんが、はじめてこのエリアに「魂が吹き込まれた瞬間」と言っても過言ではありません。
まちがある限り希望はある
「まちは現在進行形」なので、渚カヲルくんが言っているように「希望は残っているよ、どんな時にもね」です。
常総市であすなろの里をトライアル・サウンディングから丁寧に実施して民間事業者の市場性と向き合いながらRECAMP常総として、南城市で地元に無償譲渡した公民館を地域プレーヤーたちで玉城食堂として再生など、全国各地で小さいながらも希望を感じるプロジェクトが各地で展開されています。
まさに「負債の資産化」、「まちの再編」、「まちの新陳代謝」ですし、それぞれの点やエリアに魂を吹き込んでいます。
まちが存在し、そこに真剣に向き合う行政、そのまちらしい地域コンテンツ、強烈な個性を持つ地域プレーヤーがいればどこかに希望はあるはずです。
墓標を目の前に絶望して既得権益・前例踏襲・忖度や人のせいにしたり言い訳したりするのではなく、自分たちのまちを自分たちらしく、自分たちの手で考えて手を動かし試行錯誤していく。そこに魂が宿り可能性が見えてくるでしょう。
本来は作る前から
そして、本来は墓標を作る前からこうしたことをやっていくことが必要です。
現在関わっているあるまちでも、担当者さえ魅力を感じないオママゴトのような展示・体験しかできない施設を、補助金・交付金を含む税金に依存して一等地に整備しています。
「まちの経営責任」を取るのはそのまちの人たちでしかありません。
今、大人の事情や自分たちの覚悟・決断・行動の不足、その場を取り繕うことなどで「なんとなく」やってしまうと、後年度にその何倍、何十倍、何百倍の苦労を本人や将来世代が負うことになります。
「こうすればうまくいく」という成功の方程式は、プロジェクトがそれぞれオーダーメイド型なのでありませんが、「これをやったらコケる」ポイントは全国の墓標から学ぶことができます。
ほとんどの墓標は「まさか」ではなく、初歩的なところでそのプロジェクトに対する姿勢が中途半端、魂が入っていないことで生み出されています。墓標はハコだけで魂が宿っていません。
一方で「魂を吹き込む」ことは自分たちでできます。墓標に後から魂を吹き込んで再生させていくことは本当に大変です。
だからこそ構想段階からきちんとプロジェクトには魂を込めていきましょう。
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