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食と韓国語・翻訳ノート17:국(スープ)

ラーメンを煮てくれ

何年か前、『食卓の上の韓国史』の著者・周永河と済州島に滞在したときのこと。関係者と会食して夜も更け、さあ宿舎に帰ろうというときに、先生は「ラーメンが食べたい」と言い出した。「おまえの部屋で食おう。ラーメンを煮てくれ(라면 좀 끓여줘)」。ラーメンを煮る、とは日本語ではおかしいが、韓国語ではラーメンは煮るものだ。韓国でラーメンといえば、もちろんインスタントラーメンのことで、だからもちろん家で食べる。数年前あるドラマがきっかけで、「ラーメン食べよう」は、男女が一線を越えるサインになったという。家に誘う意味になるからね。

先生はわたしがラーメンを「煮る」のを、ぎょろっとした目でずっと見ていた。日本はインスタントラーメンの祖国だから、日本人がラーメンを作るのを見てやろうというわけだ。学恩に報いるために、特別に卵も落としてあげた。さて、できあがった日本人メイドのラーメンを食べながらかれは言った。「국물이 적다(スープが少ない)」。韓国人がラーメンを、とくに酒の入った深夜にラーメンを食べる意味は、MSG(化学調味料)と塩分たっぷりの、そのスープ(국물)にある。麺に味をからめるためではなく、スープの摂取こそ、ヘジャンになるという。そういえば、韓国の、特におじさんたちは、コンビニの前なんかでラーメンのスープを飲みながら、よく「あ゛あ゛あ゛」という声を発している。日本で生まれ育った人の口からはなかなか出ない声だ。この行為や感覚を韓国語で「へジャン(해장/解酲)」という。夜な夜な、街のあちこちでへジャンは行われている。ヘジャンは日本語で言えば酔い醒ましだろうか。でもラーメンなんか食って酔いが醒めるわけがない。アルコールの染みた内臓に温かい水分と塩気、さらにトウガラシを入れるときの、代謝が進むような感覚、それを得ようとしている、ように見える。

スープの地位

ことほどさように、韓国の食の世界には、スープがまんなかにでんと座っている感がある。『食卓の上の韓国史』であつかったメニューはざっと26品目だが、そのうちスープ(국, 탕)に分類されるのが、クッパ、ソルロン湯、チュオ湯、ユッケヂャン、参鶏湯、神仙炉、タッペギグク、ポゴックク、ソガリメウン湯で、9品を占める。これ以外にも多様なチゲ類がある。この本のプロローグにも説明があるが、韓国の古い食事のありかたは、ごはんとスープ、それにパンチャン(おかず)からなる。ごはんを食べるにはスープがかならずなければならないと考える。たしかに、韓国の食卓でスープが出ないということは、まずない。だから日本に旅行に行ったとき、ついセットにするのを忘れ、みそ汁が別料金と知ってうろたえたりもする。メニューにおいても、定食屋のような場所で、テンジャンチゲやキムチチゲ、スントゥブチゲなどはメインを張っている。塩サバや生姜焼きに押しやられてみそ汁が隅っこにいる日本に比べても、あるいは他の国に比べても、スープの地位はやっぱり高いというべきだ。なにしろ、利益のあがらないむなしいことを表す慣用句が「국물도 없다(スープもない)」である。なくてはならない最低限度のもの、それがクンムル(국물/スープ)であるらしい。

クク(국)、 クンムル(국물)、タン(湯 탕)、 タングク(탕국)、チャン(醤 장)、チャングク(장국)、ユクス(肉水 육수) 

ところで、上に書いた単語はすべて、わたしが『食卓の上の韓国史』で「スープ」と訳した単語である。場合によっては、「汁」とか「だし」とか、いろいろ使い分けもするけれど、基本的にはスープとしか言いようがない言葉だと思っている。でも、意味は同じようでいて、少しずつ違う。クク(국)は液体がメインになっている料理のことだから、まさにスープ。入っている固形の具材がメインだったらチゲ(찌개)になる。クンムル(국물)は料理のなかの液体部分。ラーメンのスープなんかがこのクンムルにあたる。キムチの汁もクンムル。タン(탕/湯)はククの漢語といっていい。だから、ククのかっこつけたやつ。ククなんだけど、なんか由緒があって、大仰なのが、ナントカ湯になる。タングク(湯국)はもはやただの重複。チャン(장)は漢字で書くと醤で、醤油やみそのこと。転じて、みそ仕立てのスープのこともチャン、またはわかりやすくククをつけて、チャングク(장국)という。日本のみそ汁なんかもチャングクにあたる。ユッケヂャン(육개장)もチャンだし、納豆のような清麹醤(チョングクチャン)のチゲもチャンである。だからこれもスープになる。最後のユクス(육수/肉水)はちょっと違う。たとえば鍋を囲んでいて、鍋のなかが煮詰まってきたとき、足すのがユクスだ。水で薄めるのではなく、なにかしらダシの入った液体を足す。気の利いた食堂なら、何も言わなくても頃合いをみてこのユクスを持ってきてくれる。辞書的な意味は、字義どおり「肉のゆで汁」。悩むところだけど、これもやっぱりスープかな。

あれもこれも「スープ」と訳していると、本がスープだらけになっている気がする。わたしのせいじゃなく、韓国の食卓が、ほんとにスープだらけなんだからしょうがない。しかもこれだけじゃない。スープよりシチューに近いかもしれない「チゲ(찌개)」、日本の「鍋」に近いイメージの「チョンゴル(전골)」もかなり液体が多い。だいたい、「炒め(볶음)」と言っているトッポッキも、「蒸し(찜)」と言っているチムタク(찜닭)も、なんだか液体が多いのである。

最近、韓国といえばとろけるチーズとフライドチキンの国みたいになってきているらしい。それも確かにそうだけど、やっぱり、スッカラク(さじ)でスープをすすってはうなり声をあげる、そういうヘジャンの世界もまだまだ健在ではある。

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