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大人になれない僕の少年論

 はっと辺りを見回すと、むかし一緒にじゃれあっていたような女友達は皆、大人になっていた。就職し、お金をもらい、パートナーと暮らす。あるいは、独立。何より明らかなのは、「成人女性」としての自覚があること。ぼく(あえてこの一人称を使う)にとってその概念は、ぼやけた抽象画のようであり、遠くに浮かぶシャボン玉のように不確かで掴めないままである。けれども、何となく直感として、ぼくの未来にはいずれその言葉が意味するところの一本道が、きちんと絨毯を敷かれて用意されているのだと分かる。ぼくは今、皆が乗り込んだ急行列車の後ろ姿を、鈍行の車窓から見送ったばかりだ。列車はのろのろと景色を横切り、名もない駅でまた停車する。考え、考え、立ち止まりながら。

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 昔から、ぼくの成長はゆっくりだった。小学校の背の順では常に一番前で、腰に手を当てる役割。ほとんど“前ならえ”をしたことはない。6月生まれなのに、同級生と遊んでいてもどこか、おねえさんたちと一緒にいるような気がした。中学生くらいで身体の姿かたちは完成され、第二次性徴は来たような、来なかったような、これも曖昧なイベントに終わった。関係があるか分からないけれど、今でも変身願望(扮装癖?)が消えないのは、羽化できなかった蛹と同じように、手に入らない何ものかをずっと夢見ているためかもしれない……というのは考えすぎだろうか?

 結局「女の子である」ということがよく掴めないまま、少女時代といわれる時期を通り過ぎ、やがて「大人の女性」とされる年齢に差し掛かった。でも、相変わらず周りの皆はおねえさんのままだ。ぼくが考えもつかないような“大人な”事柄——結婚や出産についてなど、当たり前のように話題に上げる。そんなことより、世の中にはもっと面白いことがたくさんあるのに。まるで拗ねた子供のように、本気でそんな疑問を抱いていた。

 やがて女性性に惹かれることがわかった自分は、レスビアンのコミュニティと関わるようになった。この中では“大人な”話題はほとんどない。みな年齢も姿かたちもばらばらで、おねえさんたちと話しているようなあの空虚な隔たりはなかった。初めて、大勢の人のなかで居心地がいいと感じた。

しかし、ここでも何となくフェミニンな装いを続けていた自分の裡では、ある不安が常に付きまとって消えることはなかった。

こんな未発達の体で、声も幼いし、本当の性もわからない、そんなぼくは女性賛美の世界——レスビアンのコミュニティに真の意味で受け入れてもらえるのだろうか? いや、自分はそもそも“女性同性愛者”なのだろうか……?

 悩んだ末、遅い自我の目醒めを経たのち、ぼくは「成人女性」という手札を捨て、「少女」もポケットにしまい、最後に残った「少年」のカードをじっと見つめている。なぜこの選択肢が残ったのだろう。ずっと、ぼくは大人になることに憧れて、そのためにはどうすればよいか日々試行錯誤して苦しんでいたはずなのに。

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 ぼくにはそんな遅々とした成長のなか、長らく信じていた「大人になるための方法」というものがある。そのうちでも重要だったのが、“精神的な成熟”であった。大人というのは、論理的思考ができ、冷静でいて優しく、ほかの人間とスマートな関係が築ける存在……これこそ、小さなぼくが最初に考えた理想の大人像だった。つまり、精神の世界でより高みへと上っていけば、いつか大人になれるのではないか? 自己の探究が始まったのも、そういう希望的観測からである。ある意味では、社会に対する反逆としての振る舞いでもあった。成熟した身体がなくても、社会的な大人の“資格試験”を通過していなくても、大人とやらになってやる。そういう意地が、回り回って少年という在り方へと繋がったのは事実である。

 芸術において、少年という存在は男でも女でもない、特別なものとして扱われる。(少女が「小さな女性」として描かれるのと対照的に。)その歴史は、古代ギリシアからルネサンス、頽廃の19世紀末、そして現代へ連綿と連なる。ただし、絵画や文学に表れるのは“現実の”少年ではない。稲垣足穂が言うところの「生活主義的安直さ」のない高次の存在である少年だ。そして貪欲な大人たちは、しばしば現実の少年にもその夢の反映を探し求める。ぼくは、そこに自分の目指す光明を見つけたような気がした。大人の身体を持っていなくても、高い精神性を持つ存在……探していたのは、まさしくこのような“ロールモデル”だった。
 それに、実際の少年がこれを実践するよりも、ぼくがやってみせた方がより虚構らしさが増して、実体という見せかけの現実から飛び立てるのではないだろうか? そんなことを企んだりもした。ぼくが他者から少年として眼差されるとき、初めて現実に裂け目が出現するのだ。

 もちろん、ぼくは徹底してその理想を目指すわけではなく、あくまで自然にその美学を意識しながら、ゆっくりと体に取り込んでゆく。その方が、ぼくの歩む速さにも合っているだろうから。それに、すべてを理想のために抛(なげう)つのは、ぼくの思うエレガンスに反している。この信念は反大人の旗を掲げるダンディズムでもあるのだから。

 ぼくは少年を眼差す側にはなりたくない。

 虚構の少年として、より高いところへとゆくだけだ。

 ……しかし、いつまで少年でいられるのだろう。
 砂時計に詰まった白い粒はいまも刻々と減ってゆく。残された相対的な時間は、もう多くはない。この砂粒が落ちきるときは、つまり、ぼくの成長が止まるときである。なぜなら、成長しない少年などこの世に存在しないのだから。いま身体の隅々まで満ちているこの不安定性が硬化し始めたら、きっとそれが「大人」へと羽化する兆しなのだろう。でも、それが近い将来、いつになるかは分からない。

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 ここまで少年と自分について探究してみて、何だか面白おかしく思えるのは確かであるけれど、でも、そのおかしさこそ、ぼくが日々現実に見出している奇異さそのものなのだ。現実と夢の乖離……人はそれにうまく折り合いをつけて生きてゆくけれど、ぼくにはどうしても二つを切り離すことができない。まるで並走して流れる川のように、それらはときに混じり合い、海へ向けて汽水となりながら流れてゆく。ぼくの乗っている列車は、いつの間にかそんな川のほとりを走っていた。

……当然、ここに言葉として凍結した部分がすべてではないし、列車に揺られながら書いた文字はきっとがたがたしていて読みにくいだろう。でもやがて来たるその時の前に、今のぼくが書けることをできるだけ書きたいから、こうして残しておくことにする。宛先は一応、「大人のぼく」としたためておくけれど、次の駅でポストに投函するかは、まだ迷っている。

青磁

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