鉱夫

自分のこととなるとどうでもよくなる自分へ

● 自分が住む部屋なのに片付けが面倒くさい。
 けれど誰かが遊びにくるとなると真剣に掃除をする。
● 毎日の食事は適当にすませる。
 けれど大切な人に美味しい手料理を振る舞いたい。
● 自分の仕事は全然進んでいない。
 けれど他人の仕事をついつい手伝ってしまう。

少なくとも自分はそんな感じの人間だ。

20年くらい生きてみれば、自分がどういう人間なのか、ということが、ある程度わかってくる。

ぼくははじめ、この自分のことについてどうでもよくなってしまう性格を好きになれなかった。なにかと損をしてしまっているような気がするし、自分のことくらいはきちんとしたいという気持ちがあった。

そんなわけで、その自分に対して無関心な性格を矯正しようと努めていた時期がある。だめな自分にムチを打って、自分を変えてしまおうというのだ。けれどこれはうまくいかなかった。自分の本来の性格というのはなかなかに頑固で、それを捻じ曲げるには相当なパワーが必要なようだった。

うまくいかなかったので、矯正するのはあきらめた。そのかわり、その性格をうまくつかうことを考えた。誰かのためにやっていたことが、同時に自分のことになってしまえばいいのだと思った。

上で挙げた例を使って説明するなら、部屋が片付かないなら、頻繁に友達を家に呼べばいいし、ひとりの食事が味気ないなら友達を誘えばいい。他人のの仕事にばかり手を貸したくなるなら、他人の仕事を手伝うことを自分の仕事にすればいいのだ。

noteも本当は、自分のこころを整理するために書いている。けれどそれでは続かないので、誰かに読んでもらうため、という偽の目標をかかげているのだ。誰かのためと思わなければ動けないなら、とりあえずそういうことにしておけばいい。

ぼくは自分の性格を自分の理想の状態に矯正しようとする人や矯正できてしまう人を、マッチョな姿で岩盤を打ち砕く鉱夫、逆に、自分の性格をうまく使うためにあれこれ策をねる人を、風をよんで帆をはり前に進む船乗り、とよぶことにしている。

鉱夫も船乗りも、どっちもかっこいいとおもう。

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