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私と素数と生と死と①(ADHD障害を持つ私の自分探しの旅)

素数とは「1より大きい整数で、1と自分自身でしか割り切れない数」のこと。

例えば、2,3,7,11…など。
これまでの歴史の中でまだ50個しか見つかってない、孤独な数字。

私は素数に、似ている。(自分目線)
一見、皆と同類なのに、実は独りぼっちの孤独。
例えば12なんていう数字は1,2,3,4,6,12。こんなに仲良しの仲間がいるのに、
私は常に独りぼっち。

誰かと群れたいなぁとおもっても、常に気持ちはポツンとひとり。

自分の気持ちをわかって貰いたいけど、でも、うまく説明できない、共感があまり得られない、また自分も共感出来ない。

そんな素数とADHDと言う発達障害を持った私のお話


幼い頃から少し周囲とは浮いていた気がする。
幼稚園の連絡帳は6月まで、週に1回ぐらいしか1日用の出席者シールが貼られていとなくて、
先生に「まっこちゃんが、泣いていて泣きやまないのでお家の方迎えに来てください。」って電話されていた。
朝は電柱にしがみついて行きたくないって叫んでいた記憶もある。

なんせ、幼稚園の入園式の私の写真は大号泣しているのだ。

夏ぐらいからようやく1日幼稚園で生活出来るようになったけど、お友達とうまく遊べない。
お絵かきの時間に三つ目の動物?らしきものを書いたらからかわれて泣いたり、
傘立てから傘を取るときにぶつかってきた男の子にジロと見られただけで、泣きながら帰って行った記憶もある。泣いたら泣いたで、また泣き虫と呼ばれてさらに泣く。その繰り返しの毎日。感情の起伏も激しかったに違いない。当時の自分はそんなこと微塵も思わなかったけれど。

幼い頃の私は常に一人で空想の世界で遊ぶ事が楽しくてお友達と遊んだ記憶なんて殆ど無い。
実家庭にには我が家占用の砂場があって、そこでいつも一人でおままごとして遊んでいた。
ブツブツなにかつぶやきながら。

周囲に同い年ぐらいの子がいても、母からあの子とは遊んじゃだめって言われていたり。
女のコが少なかったので、男の子の遊びに混じりたいけれど男の子の激しすぎる遊びには混じれなかった。

両親はとかく、世間体を気にする人で、昔はまだ差別もうっすらと残っている時代で、公にはしていないものの、陰でコソコソとあそこの家は〇〇だからとか、
私から見たら同じ人間なのに、〇〇の理由も良くわからないまま、とにかくあのお家の人たちと、仲良くしてはいけないんだって言い聞かせていた。

両親は厳しくて、幼い頃に駄菓子屋さんに行く事も禁止され駄菓子を食べる事も禁じられていた。
だから、今、駄菓子屋に行って懐かしい気持ちよりもこんな世界があるんだって新鮮に思うことのほうが多い。
あまり甘えた記憶も無い。いや、あるのだろうがとにかく子どもらしく無邪気に甘えたことがないいわゆる手の掛からない子だった。

私は幼いころから人の顔色をうかがったり、その場のピーンと張り詰めた空気を感じる事が出来たのか(これも主観で他の人にどう見えているのかは実際の所わからない)、
両親が喧嘩したり、祖母と母がなんとなく不機嫌であったりすると、この空気を変えるのは私しか居ないと思っておちゃらけた事したり、とにかくその場の雰囲気を変えるとこに頭を悩ませていた気がする。

こんなエピソードがある。
私が幼稚園から帰ってくると、祖母がブドウ巨峰を用意してくれていた。
それを食べていると裏で母がそれを見ていたらしく、母屋から離れの自宅に戻るととにかく母が冷たい雰囲気…
なんだろう?と思いながら母にそれとなく聞いてみるとなんと母も私達のためにデラウェアを用意してくれていたようだ。
でも、おばあちゃんのとこでブドウ食べたなら要らないでしょ?と不機嫌に言われたので、お腹いっぱいなのを我慢して、デラウェアを食べた。
夜ご飯もしっかり食べてとにかく、誰も不機嫌にならないようにと言うことだけを願っていた。

そんな頃に相次いで祖父祖母が亡くなった。
当時、私は幼稚園から帰宅したあとは毎日御見舞に行くのが当たり前で、よく祖父祖母が食べ残したご飯を食べていた。
病院食は美味しくないけど祖父祖母が私の為に残しておいたと言われると食べないと申しわけない気がしたのだ。
そんな理由で私は幼稚園から帰ったあと、病院中を探検することが日課で、あちこちの病棟に顔をだしてりして、なんだか死とは常に背中合わせの生活をしていた気がする。
看護師さんやお医者さんに、かまってもらったり、患者さんに絵を書いたりして大人と一緒にいる時間がとても多かったと思う。

優しくしてくれた患者さんの体調が、中には突然様態が変化して、
空気が一変する世界にいた私には死はあまりにも身近すぎて恐怖心など感じることはなかった。
ただ、頭の中でもぼんやりと死んだらどこに行くのだろう?と言うことを毎晩夜寝る前に考えていた。

今になればADHDの特性の1つとしての感覚過敏で、物音や光などにたいして、定型発達の人よりも過剰に反応しているんだとわかるけど当時の私は皆、同じ世界で生きていると思っているので、どうしてこんな音の中で眠れるのだろうかと思うぐらい寝付きがすこぶる悪かった。
(今でもすこぶる悪い)
大概寝付くまでには1時間以上布団の中でもぞもぞしていて、そんな時間は眠れないことを考えるとますます眠れなくなるから、今日の空想するテーマを考えてから布団に入る毎晩だった。

おかげで天井の木の板の節を眺めながら毎晩人は死んだらどこに行くのだろう?ということばかり考える癖がついてしまった気がする。

だから、相次いで祖父祖母が亡くなったときも悲しいとか怖いとかそんな感じは全くせずに、祖父祖母は次は何処の世界で暮らしていくのかな?位にしか思えなかった。


続きはまた。

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