[012]“ぜんぶ”からの脱却
文章をこうやって書いていると、“アレについてもコトワリを入れておかなきゃ”とか、“コレはこういう風にすれば誰も傷つかずに済むな”とか考えてしまいがちだ。
でも、そんなものはたいてい無意味なものである。
なぜなら、たとえば“誰も傷つかずに済む”文章なんて、プロでもあるまいし書けるはずがないからである。
というのも、そもそも“誰も傷つかずに済む”文章がどういうものになるかも想像せず、懸念だけ示しているのはなんともバカらしいことなのではないか、とようやっと自身が気づき始めたからだった。
だから、“誰も傷つかずに済む”ではなく、“誰かしら傷つく”を心がけていけばいいのかなと思う。
これも、結局のところ同じ結末になるのを避けたいために言っておくが、「誰かは傷ついてる、誰かは傷ついてる、誰かはk…」などとお経を唱えるようになってしまってはこれまた意味がなく、割り切りが大事になってくるのかもしれない。
「もー、ぜんぶなんてムリ!」と言える割り切りが。
書いていて気づくことはたくさんある。
この記事もそのひとつで、枝葉の完成度に凝るあまり、つまるところイイタイコトがボケてボケボケになってしまい、散らかったまま終わってしまう。
「大事なのはなにか」という、啓発本や使い回しのネット記事で何度も見慣れた言葉にやはり回帰しちゃうわけで、完璧な記事、完璧な文章などは存在しない。
仮に、「良いモノできた!!!!」と思っても、大抵一晩寝かせれば人様に見せられない文章でしかないと、冷静に理解し、大幅に直すことになる。
やや逸れてしまったが、読み手全員を思いやった記事など、ない。
だから、“誰かしら傷つく”文章を数書いていく必要があると考えることにした。
丁寧に引用して、説明して、注釈までいれて……。
そういった”小さな親切”は、違う側面から見れば、読み手に想像する余白を残していない文章を書いてしまっていることにもなるわけで、そうなると、そもそもの私の思惑からは大きく外れてしまうことでもあるため、止めておこうと思う。
引き続きの難しい挑戦になりそうですね、と温かく見守って下されば幸いで、つまるところ「読みにくいがわかりやすい文章を書いていきたいよ!」というのが今日の話であった。
「読みにくいがわかりやすい」にまた注釈を入れそうになったので、ここらへんでやめておきたい。
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