[004]朝の20分がくれた景色
そういえば昨日の朝はなぜだか知らないが、少しだけ早く起きれた。
朝が弱いことに定評がある私が、早く起きれた。
本当のところは、前日(日曜日)の出勤が少しだけ早く、いつも使っている目覚まし時計の設定がそのままになっていたのだ。
そのおかげで結果的に20分くらい早くベッドを出ることができた。
いつもであれば家を出る準備は忙しなく、忘れ物がひとつあるのはデフォルトになっているわけだが、昨日の朝だけは余裕ができてしまい、若干の手持ち無沙汰、少しだけ落ち着かなかった。
私はいわゆる、朝はとにかく一秒でも布団と一緒にいたい人で、余裕をもって家を出るとか、そういうことにあまりメリットを見いだせない人だ。
しかし、昨朝は一歩外出た時からも、いつもとは何かが違っていた。
例えば、
”あ、ここの舗道がいつもきれいに除雪されてるのはこの人がやっているからなのか!”とか、”この時間はタクシーが割と停まっているのね…!(今度使おう)”とか………外出直後の1分間で得られる視覚情報はいつもの十倍くらいはあった、というより、それはもはや、いつもの景色の延長線上にある景色ではなく、いつもとは全く異なる景色でしかなかった。
「ラーメンと言えばあそこ、そしてそこに行って食べるメニューはコレ―。」
なるほど確かに、人間は日々の数ある分岐点のほとんどで安定性のあるものを選びがちのように思う。そういった安牌を求めれば、決まりきったそういう、凪のような行動パターンになるし、ストレスフリーな選択肢であることは間違いないかもしれない。疲れていたり、気に病んだりした時は迷いなくそれを選んだ方がいいだろう。
しかし、時としてその選択肢は、人生の残り時間がある中で、出会える何かに出会わない選択肢に成り得てしまうことを、人は無意識に無視しているような気もする。
意識して無視しているならまだしも、やがて選択肢すら存在しないかのように振る舞うかもしれない、その、”いつしか見えないようにしてしまっていたルート分岐”に気付かないと、昨日まで見られなかった何かに気付くそのきっかけさえ、掴むことは難しいだろう。
「早起きは三文の徳」とはよく言ったものだが、やはり昔の日本人は本質を鮮やかに見抜いているな、とつくづく思い知らされる。
テクノロジーがどうで、Society5.0がどうなって―。
メディアやSNSで飛び交うそんな話も、もちろんこれからを生きていく上で大事だが、自分の生活を送っていく中で最もファンダメンタルで、大事なことは本当にそこにあるだろうか、やはり時々立ち止まってみたくなる。
新幹線どころか、リニアくらい速い潮流を孕む時代で、最も大事なことは、立ち止まる余裕や五感を研ぎ澄ます感性なのかなと思う。
”今日も寒いな。”
”雪が綺麗だな。”
こうやって、句読点までちゃんと噛みしめられるエモさを感じられるように心がけてみようかなと思えた、氷点下7度の朝だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?