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[024-1]理論と、実践と、テイクアウトできる手軽なもの(上)


こんにちは、まっちゃんです。


とりあえずやってみろ!」と言う人に会ったことはあるでしょうか。

まぁ、そういう人はどこにでもいると思います。


実のところ、自分にとってこの言葉はだいぶ受け入れ難かった言葉でした。

この言葉と“仲良く”できるかもしれないと思えたのも、つい最近になってからのことです。



ビールを頼む感覚で

「とりあえずやってみろ!」はいわば、「四の五の言う前に実践してみろ」ということでもありますし、「やってみたらわかることもあるのよ」ということかもしれません。

小難しい話、「理論/実践」なんていう、ありきたりな二項対立の構図に落とし込むこと自体に、なんというか、限界みたいなものを感じてはいますが、”便宜上”という便利な言葉でこの構造は成り立っているのは「まぁ、その方がわかりやすいし…?」ということに尽きるのだと思いますし、理解も、共感もできます。

しかし、理論を積み立ててから実践に入るカタチを、どうやら20年くらいかけてインストールしてここまできてしまった私にとしては、「とりあえずやってみろ!」の言葉の意味がいまいちよく理解できませんでした。

“とりあえずって……ビールかなにかか?”、と思うくらいが精一杯だったのです。

ちなみに、サッポロクラシック派です



言いたいことを自由に言える場で

コロナ禍の影響はいまだに完全に終息する気配をみせません。

いずれ、歴史や公民の教科書に「新型コロナウイルス」の文字が載り、「あれはパラダイムシフト、歴史の転換点でした~!」なんていう風に載る……かどうかはわかりませんが、それくらい大きなことなのは確かでしょう。

そして、コロナ禍によって透けて視えたコトやモノは、人々が想像しているよりもずっと多く、いかに日常の繰り返しの積み重ねに慣らされてきたか、といった感触を強く覚えざるを得ません。


そのような非日常っぽい日常(?)において、言いたいことを好きに言えるSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)をはじめ、四方八方にだいぶやんちゃなヤフコメ、均質化された報道を続けるマスメディア……など、いま挙げた目の前のタイムラインからも随所に非日常感が滲み出し、いつもは凪だった海に、明らかに波風が立ち始めたことをあちこちで視認できた数か月だったようにも思います。

そこには、過激な言説や内容を隠そうともせずに飛ばしてくる情報発信もあれば、癒しや優しさの笠を手に他人につけ入ろうとする言葉も見受けられました。

そういうのを見るにつけ、それぞれが思い思いの発信をしているという事実がより鮮明になっていることに気づくこともできました。



それは「実践」か?

実践(を大事に)する人が多いことは、先行き不透明な時代においてはイイことなのだと思います。

私からすれば、それは「フッ軽な人(=フットワークが軽い人、行動力が高い人)」と捉えていて、我ながら本当にうらやましく思ったりするものです。

” Don't think,feel. ”を地で行ける人、考えるよりもパッと動ける人は、仕事もできると言われるし、職場にいてもそれを実感します。理論の構築が素晴らしいのか、野生の勘や本能、感性が鋭いのか、タイプは多種多様ですが、なんせガチガチに堅~い私からすれば感服しきりというものです。

そのような日々の経験からも、前述の「やってみたらわかることもあるのよ」は共感こそすれ、否定はできない言葉だと信じています。


しかし、その人が言っている「やってみたらわかることもあるのよ」は、本当に「実践」と呼ぶべきものなのかどうか、いま一度自分の頭で問わなければいけないとも思います


その「実践」は、自分の鍛錬、自己研鑽のための「実践」でしょうか。

それとも、なにかの研究や計画の実を結ぶための「実践」でしょうか。

はたまた、愛する人のことを思って促した「実践」でしょうか。

……といったように。



ネット潔癖症

例えば、ツイッターは比較的自由な場と言えるかもしれません。

自分が感じたこと、好きなことをつぶやける、本当に画期的で素敵なソーシャルネットワークサービスだと心底思っています。
見たこともないコンテンツやエッジの利いたギャグに満ち、それらが常にタイムラインに供給され、飽きることはありません。

発信における自由度においては、際限がないと言っていいでしょう。


しかしその一方で、それゆえ各々が苦手なもの、キライなものを排除・排斥しすぎて、”ネット潔癖症”があふれた成れの果ての集合体、のようにも映る時もあります。

苦手なものはブロックする、という防御策は確かに手軽でカンタンな自衛方法ですし、その行為自体、間違ったことではないと思います。

ただ、それを礼賛することについては立ち止まって考えなければならないというふうに私は考えるようになりました。

その自衛方法は決して間違った一手ではないのですが、「苦手なものはすかさずブロックする」とか、「発信してみたらわかることもある」といった行為は同時に、他の選択肢を観ずして自分が予め定めた目的地へ邁進しているという可能性も含んでいます。

その点についていま一度、確認くらいはしておく必要があるのかもしれません。


(つづく)

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