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「知る」ということ

小学校教員時代の拙文を再掲。(2002年7月13日「PTA通信」No.2359 より)

 4年生の社会科では、1学期を通してごみについて学習した。燃えないごみは、実はすべて文字通り「燃えない」わけではない。厳密に言えば「燃やせない」、または「燃やしてはいけない」ごみなのである。子どもたちは、あらためてごみ箱の中を見つめ直したり、家に帰って親にリサイクルをしようと説得したり、自分なりに学んだことを日常の生活に還元してくれている。「知る」ということはそういうことなのだ。

 最近、子どもたちが使う言葉の中に、「ムカツク」「ウザい」「キモい」「ショボい」などがある。自分の都合に合わない異質な存在を見ると、そういう言葉で切り捨て、拒絶してしまうようだ。巷では、「身体障害者」を略した「シンショウ」という言葉が、相手を侮蔑する言葉として使われているらしい。

 自分が子どもだった頃を思い出してみる。片田舎の福島には、まだ「ホームレス」といったしゃれた名前などなく、どこで覚えたのか、「乞食」「橋の下」といった言葉を折に触れ、ふざけ半分で使っていた。しかし、いつだったか、本当に橋の下に住居をかまえ生活している人々を目にした時、強烈なショックを受けた。橋の下は人通りが少ないうえ、風雨が防げるという点で、まさに彼らにとっては最適の居住空間だったのである。以来、その言葉は二度と使えなくなった。「知る」ということはそういうことなのかもしれない。

 「アフガニスタン」や「ビン・ラディン」という言葉が、まるで諸悪の根源、悪党の代名詞であるかのように使われていたひと頃があった。しかし、そのアフガニスタンで、地雷を見つける方法を勉強させられている少年兵のことを「知った」時、同い年の少女が血を流して死んでいくという事実を「知った」時、なおもアメリカの報復攻撃を是とし、仮想敵国アフガニスタンを「悪の枢軸」と言い続けられるだろうか。

 私の祖父は戦争で中国に渡り、現地の人を殺めるという経験をもっていた。彼の日記には、その時の様子が淡々と描かれている。生前の祖父からはとても想像ができない。小さい頃から『はだしのゲン』を読んで育った私にとって、「戦争」「八月」「ヒロシマ」といった言葉は、今でも特別な響きをもって聞こえてくる。

 大学時代、在日韓国人の友人がいた。彼女は生まれも育ちも日本で、姓や言語もすべて日本人でありながら、国籍が違うという理由だけで、想像もできないような重荷を負っていた。「帰化しちゃえば?」「日本が嫌なら韓国に行けば?」という周囲の心ない一言にどれだけ傷ついてきたことか。彼女から初めて「知らされる」事実は、思いのほか多かった。ワールドカップの共催国でありながら、私たちは韓国について、あまり「知って」いない。過日、Kチャプレンの話をうかがいながら、その思いを新たにした。

 大学で教えを受けた教授は口癖のように言っていた。「知る」ということは、知らなかったかつての自分ではいられなくなるという意味で、過酷なことなのだと。別段、何か大きなことをするわけではない。ただ、知ったからには何か変わらずにはいられない。「知る」ということはそういうことなのかもしれない。

 塚田理氏は、著書『象徴天皇制とキリスト教』の中で、社会に目を向けず、信仰の事柄にのみ目をむける宗教者の消極的態度を「安易な政教分離主義」として厳しく批判している。おこないの伴わない祈りが無力であるように、行動が伴わない「知識」もまた無力である。「知る」ということは、それを実践することで初めて真の価値を発揮する。

 モラルやマナー、人道的な観点から、「ごみを減らしましょう」「キタナイ言葉を使ってはいけません」「戦争や暴力はいけません」「韓国と仲良くしましょう」ということはたやすい。しかし、本当に「知る」ことの方が、実は大きな力を持っているのではないだろうか。どうせ自分一人が正直に生きたって馬鹿を見るだけ、という見方もあるだろう。しかし、世界を動かすのは、ハリー・ポッターやスパイダーマンといった一人のスーパーヒーローではない。ごくごく小さな一人ひとりの知識であり、行動であり、そして祈りである。


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