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震災で問われたもの~キリスト教メディアの視点から(5) 「寄り添う」だけが使命か

「中外日報」2014年7月23日~8月8日に寄稿した連載全6回。

 文化人類学者の上田紀行氏は、『慈悲の怒り』(朝日新聞出版)で「既成事実への屈服と、権限(役割)への逃避。そして、この時期に関わってしまった『私』は、状況の『被害者』なのだと言わんばかりの精神構造」について提起した。

 「社会状況の中に重大な隠蔽があったり、社会全体の舵取りがおかしいといった、不安を生じさせるのが当然な重大な事態の時は、きちんと不安になったほうがいい。……操作された情報を鵜呑みにして不安を解消しようとしたり、『がんばろう』といった判断停止の言葉に逃げ込んで不安を忘れたりといった逃避行動ではなく、冷静かつまっとうな行動が要求されているのです」

 不安は無くすべきものではなく、活かすべきもの。かつて一人の敬虔なキリスト者として国に忠誠を尽くし、「滅私奉公」の精神で模範的な軍人であろうとした神学者の渡辺信夫氏も、同様の指摘をしている。そこには、戦後と通じる震災後の宗教のあり方への痛烈な批判がある。

 「私が言いたいのは、戦争のもたらす悲しみを、宗教が本来の宗教的な方法によらず、戦争目的に沿うような方法で、すなわち国家が行う戦死の意味づけと同じやり方で処理することの悪です。『悲しむ者と共に悲しむ』という生き方ではなく、悲しみがないかのように思わせて、元気づけることができれば成功だと考える宗教を盛り上げたのですが、そのような宗教が、今や恐るべき無気力に陥っているのです」(『戦争で死ぬための日々と、平和のために生きる日々』いのちのことば社)

 地元仙台で被災し、教会員を捜して600人余の遺体を見て回ったという故・川端純四郎氏(元東北学院大学助教授)は上田氏と同じく「怒らないキリスト者」への違和感を表明していた。キリスト教系大学の学生ボランティア数百人のうち、「選挙には必ず行く」と言ったのはわずか十数人しかいなかったという。

 「クリスチャンは怒らなすぎる、と今思っています。聖書のイエスさまの奇跡の物語は全部怒りで始まっています。ただ苦しむ者とともに苦しみ寄り添うのではなくて、苦しむ者を苦しめているものに対する怒りがまずあって、その怒りから苦しむ者の側に立つイエスさまの姿が見えてきます」(『福音と世界』2011年5月号)

 直後の急を要する支援に加えて、長期的な視野として欠かせないもの。それが、目の前の事象を表面的に捉えるのではなく、構造的問題を見きわめ、具体的な解決の方法を探り、そのために可能な限りの努力を惜しまないこと。選挙もそのための手段に過ぎないが、現状ではよりふさわしい為政者を選ぶことも大事な支援の一つに違いない。

 「寄り添うこと」が宗教者のできることとして注目を集めてきた。しかし、そこに含まれた内実はさらに問われてもいい。ただ現状を追認し、世の趨勢に身を任せながら、「弱者」に寄り添う姿勢を見せるだけの欺瞞には自覚的でありたい。

(「中外日報」2014年8月6日付)


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