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震災で問われたもの~キリスト教メディアの視点から(1) 黙して語らないキリスト者

「中外日報」2014年7月23日~8月8日に寄稿した連載全6回。

 震災から3年。私たち宗教メディアは、独自の視点から有益なメッセージを発信してこられただろうか。「世の無常」と「神のみ旨」を説きながら、問題の本質にどれだけ迫れただろうか。この国の民は、宗教指導者は、教会は、何を学び、どう変えられただろうか。震災で露呈したキリスト教界を含む宗教界の脆弱性と真摯に向き合いつつ、あらゆる「境界」を乗り越えて課題を克服するための筋道を探る。

教会外に届かぬ「言葉」

 「東日本大震災および福島原発事故直後に頭に浮かんだことのひとつは、『各宗教団体はどう反応するのだろう』という興味だった」(『週刊金曜日』2,011年12月23日/877号)

 ジャーナリストの境分万純氏は『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書)の書評でこう書き出した。写真家の藤原新也氏による「全土消滅 昭和消滅 神様消滅 独立独歩」と題する文章の衝撃も忘れ難い(『東日本大震災 100人の証言』AERA緊急増刊/2011年4月10日)。

 「神などいない」――。3年前の「あの日」以来、信仰を持たない多くの「非宗教者」から突き付けられてきた問いが、抜けないトゲのように刺さる。何を語るにも、未曽有の被害をもたらした震災という厳然たる事実の前には、どこか空しい。――果たしてキリスト教界は、この問いに答えられてきただろうか。すでに語られたこと以外に、もっと語るべきことがあったのではないか。

 同時に、改めてキリスト教界の発信力の弱さを思い知らされている。ここに来てようやく、いくつかの注目すべき書籍も出始めたが、やはり時期を逸した感は否めず、教会外にも届いているかと問われれば、否と言わざるを得ない。

 2011年の夏、キリスト教メディアの震災報道について、一定の評価をしながら苦言を呈するブログを目にした。書き手は、釧路キリスト福音館牧師の山形浩之氏。

 「キリスト教メディアでは、盛んに震災ボランティア取材をし、被災地で信仰を持った人々がいることを報道したり、被災地の教会が地域の人々に仕えて喜ばれていることを報道したり、原発周辺地域の被災教会避難教会の苦難と、その中での信仰の歩みを報道したり、それはそれでとても信仰者たちや人々に希望を与え、励ますことになる良いことだと思います。……しかしそれと同時に、創造主が愛を持って創造されたこの自然環境や、私たちのこの地上でのいのちを大切にするという視点も大事です」

 震災直後から抱いてきた違和感を見透かされた思いがした。なぜ震災を機に突き付けられた問いへ、公に応答するキリスト者が少ないのか。なぜ語るべき立場にありながら黙して語ろうとしないのか。「言葉の宗教」と言われるキリスト教が、そして言葉を生業とする牧師や神学者、私たちメディアの人間が、いま語らずにいつ語るというのか。たとえ直後は「語るべき言葉」を見つけられなくとも、その困難さと誠実に向き合い、模索してきたのか。

 ここで言う「言葉」とは、キリスト教的、神学的概念を持ち出して悲劇を解釈し、知ったふうに解説し、こじつけるための手段ではない。現実から目をそらすことなく、真摯に向き合い、飾らず、おごらず高ぶらず、自らに与えられた言葉を駆使し、雄弁や饒舌でなくとも、もがき苦しみながら語ろうとすることが求められている。

 キリスト教界は震災以後の課題にどう向き合い、何が欠けていたのか、いま一度検証したい。

(「中外日報」2014年7月23日付)


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