対話のできない日本人の不幸
全く同じことをしゃべっているのに、ニューヨークと日本では、反応が180度違うことがある。
というより、日本人は、対話ができない。 対話から逃げているのだ。
日本で生まれて育った自分にとって、何か意見を言うということは、周りから反発されて、浮いてしまうということでしかなかった。
「クラスメートの言動がちょっと変だからって、からかったり笑いものにしたりするのはいけないんじゃないか?」 → 「ええかっこすんなや!」 「冗談がわかんないのかよ」
「理不尽な校則が多すぎる。 髪の長さや下着のことまで規定することに何の意味があるのか?」 → 「そういうものでしょ」 「守れないほうが悪い」
「会社や上司の言うことが正しいとは限らないのに、何も言えないのはおかしい」 → 「こわ~い」
政治のこと、司法のこと、日常のこと。 いろんな疑問があるのに、そういうことを話せるのは、本当に近い存在の友人ひとりだけでした。
自分の思っていることを話すものではない。 そう思っていた認識が変わったのはニューヨークに留学してから。
その時、経緯は忘れましたが、クラスメートと戦争の話になりました。 「日本では現代史を教えないよ。 だから戦争のことをちゃんと知らない。」
日本での私の経験から言うと、こんなことを言ったところで、「そんなこと言われてもね」 とか 「めんどくさいこと言うやつだな」 ぐらいの反応で、さっさと話題を変えられてしまうのがおちです。
その時もそうなるのかな、と思っていたら、聞いてくれたその彼女は、「そうなの? それって良くないよね、自分の国のこと知らないなんて。」 と言ってくれたのです。
私は本当にびっくりしました。 お互いに名前も良く知らないぐらいの関係なのに、自分の言うことを受け止めて、同意してくれる! 日本で30年も生きてきた間には、こんな経験をしたことなかったのに!
ほかにも、日本と違うと実感したこと。
クラスで、みんなの前で一人ずつ発表する授業がありました。 準備はもちろんしていったけど、思うようにはうまくいかなかった。 自分の中で 「日本語だったらもっとできたのに」 という気持ちもあった。
授業が終わって、校舎の外へ出たとき、”How was it?” と声をかけてくれたクラスメートがいました。 「うまくいかなかったよ・・・ わかるでしょ」 と答えた自分。 日本だったら、「まぁまぁ、気にすることないよ。」 とか 「そんなことないよ、良くできてたよ。」 とか、当たり障りのない答えが返ってくるところです。
その彼は違いました。 「わからないよ。 あなたがどういう気持ちでいるのか、わかるのはあなただけ。」
おぉ、その通りだ・・・ びっくりしすぎて、言葉が出てこなかったです。
ニューヨークにいる間、人々がこんなに他人の言うことをちゃんと聞いているのか、ということが、とても心地よかった。
自分はこう思っているということを話すと、それに反応して、その人はこう思うと返してくれる。 決して、はぐらかすとか、適当にあしらう、ということはない。
この点が、ニューヨークの人は誠実だな、真面目だな、と思うのです。
相手が子供だから軽くあしらうようなこともない。 子供なら子供に対する接し方があるだけのこと。
ニューヨークの人は誠実と言ったけど、きっとニューヨークだけではなくて、ほとんどの国や地域でも同じなのではないかと思います。 なぜなら、こんなことはコミュニケーションの基本だから。
日本ではどんな話題でも、自分の思っていることを話すというよりは、「間違っていないこと」、「世の中に受け入れられていること」 を言っているだけです。 自分の意見を言っているつもりでいても、実はそうではない。
さらに、「自分が間違っていないかどうか」 を気にしているということは、相手に対して話しているというより、自分に対する自意識のほうが強いということになる。
目の前のこの人が、自分の言葉でどう思うだろうかと思いやるのではなくて、自分がどう見えているか、のほうを気にしているのだ。 平たくいうと、相手に向かって話しているのではなくて、自分に向かって話している、ということ。
これは対話とは言えない。 二人がそれぞれ、自分の世界でしゃべっているだけ。
ちゃんと話を成り立たせたいと思う人にとっては、こういう会話は傷つきます。
冒頭に挙げた例のほかにも、こういうのもありますね。
「仕事がつらい・・・」 → 「新人のくせにつらいなんて10年早い」
「ひとりでの育児が大変・・・」 → 「誰でもやってることでしょ?」
「減るもんじゃないんだからやらせろ」 (←いやこれは犯罪です)
本当に、まったく会話が成り立っていない。 心がないのです。
私も海外に出るまでは、世の中こういうものだと思ってたんですが、それは全く間違いなのです! 本当に日本人は、心が貧しくなったのだと思います。 「なった」 と言ったのは、それでも私の子供の頃は、もう少し良かったところもあるから。
今の日本で育つと、引きこもりになったりするのもうなずけます。 大人でも、うつになったり。 むしろ、そうなる人のほうが、人間として真っ当なのではないか、という気がします。
少しでもこのおかしさに気がついて、心のある対話のできる人が増えることを願っています。 周りに良いお手本がないから難しいかもしれない。 浮いてしまうかもしれない。 でも、強さのある人にはできることだと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?