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3.11で芽生えた「当事者意識」を、10年後にもう一度思い出す

人生で感じたことのない揺れを感じ、見たこともない光景を目にした日々。

何が起きたのか良く分からないまま、自分にできることはないだろうか。それがボランティアだろうが、ネットでの情報シェアだろうが、購買活動だろうが、なんでもいい。誰もが「自分の行動の意味」を真剣に考えた日々。

全てが変わった10年前の今日。
僕自身、仕事もプライベートも諸々も本当に何もかもが変わった。というか、変わらざるを得なかった。文字通り、人生が一変した。

当時の僕は、震災当日から数日間は仲間とともに神田のシェアオフィスで被災地の情報を集めて発信したり、避難所にいる知人からの連絡を頼りに物資を集めたり、通過できる道路情報を集めてgoogle mapにプロットしたりしていた。しかしその後、いてもたってもいられず、石巻や東松島へ行って泥かきをやった。その時に、まるで爆撃をくらった後のような被災地の景色を見て愕然としたことを、色や匂いとともに鮮明に覚えている。

360℃パノラマで広がるあの光景は、テレビやネットでは決して感じる事はできない。全身の全てで感じた恐怖と無力感。鼻を突く、焦げたような薬品のような匂い。
きっと一生忘れることはない。

その後、南三陸、陸前高田、釜石、と色々なところに行ったけれど、復興には途方も無い時間がかかり、また復興の定義も地域によってそれぞれ違うことも分かった。
そんな中、ラグビーW杯2019年の会場に、釜石の鵜住居地区が選ばれたのは奇跡だと思った。

8年前に訪問した鵜住居地区の旅館「宝来館」。
お客さんを裏山に避難させた後、女将は津波に呑まれたが、泳いで流れて何とか助かった。そこは「奇跡の宿」と呼ばれ、当時の津波シーンの衝撃的な動画も残っている(閲覧注意)。
その後、大きなラグビー・ムーブメントを興す原動力にもなった場所だ。宝来館の女将のインタビューはぜひ読んで欲しい。

津波で全てがさらわれて、サラ地になってしまった土地を目の前で見て愕然とした数年後、僕は、その土地に建てられた素晴らしいスタジアムで、目の前でラグビーW杯の試合を見た。釜石のシンボルである大漁旗がなびき、地元の小中学生がたくさん招待されていた。

釜石鵜住居スタジアムのこけら落としは、W杯の1年前に終わっていて、そこでの地元高校生のスピーチは伝説だ。このスタジアムは彼女が震災当時通っていた小学校の跡地に建っている。

W杯の当日は、凄まじい晴天。試合前にブルーインパルスが青空を舞った。

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試合カードは、強豪フィジー対ウルグアイ戦。そこにはたくさんの外国人が詰めかけていて、そして現地で会った旧知の仲間たちは、とにかく嬉しそうな顔をしていて、そしてちょっと泣いていた。

あの場所で、数年経てば、人々の思いでこんな奇跡が起こせるんだ。

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節目の10年。僕も地方創生や復興に携わってきた端くれとして感じていることは、全ての土地、全ての人たちに個別の事情や課題があることだ(当たり前と言えば当たり前のことだ)。それらは、決してパッケージ化できない。だから、成功事例の横展開というのは基本的には難しいのだ。

とにかく丁寧に、その土地・その土地に、一所懸命に関わってきた人たちがいる。「こうすれば復興は成る」「こうすれば地方創生は成功する」という本やコンサルタントはほとんどがインチキであることを、現地で汗をかいてきた人ならば良く知っている。

地方、地域のことを思う時に、この一所懸命という言葉の重みをいつも噛み締める。

いっしょけんめい【一所懸命】
命がけで事にあたるさま。真剣に打ち込むさま。                                               
※注記;もともと日本で、中世の時代に主君から賜った一か所の領地を命がけで守ることをいったことば。そこから「一生懸命」という語が派生し、いまでは同義語。

この10年、3.11は被災地と亡くなった方へ思いを馳せる日だった。10年が経過して尚、悲しみが癒えない人たちも大勢いる。
でも、時間は圧倒的な不可逆性で、ゆるやかに確実に前に進んでいる。

あの震災後の日々で多くの人が感じた「じぶんの行動は、いま、社会の役に立っているのか?」という問い。電力消費、購買行動、スポーツ、そのすべては「いま必要なことか?」と問うた。つまり、あの時にきっと、日本中で芽生えた「当事者意識」を僕らはコロナ禍で活かせているだろうか。

この日、あの光景を今一度、胸に刻んで、自分が為すべきことをしっかりやって行こうと思います。

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