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想像力と創造力

画像に添えられている一文が好きで好きで
いつもかなりの頻度で使わせてもらっている
ノラ猫ポチさん
お茶碗の事、職人の事で共感好感持てたので
ご紹介記事です

ノラ猫ポチさんのこの記事で刺激を受けて
書き始めたけれど
ちょっと頭の中が整理できずに
話があちこちします…


ごん太との散歩の途中で
歩行者なら肩が触れる事なく
すれ違えるぐらいの幅の歩道がある

前から来るのが歩行者なら
ごん太と一緒にそのまま歩いてすれ違える
でも自転車だと圧迫感があるし
先に水たまりがある時は
こちらにはねる可能性があるから
相手も気を使うだろうと思い
ごん太を生け垣に押しつけるようにして止まり
行き過ぎるのを待つ
荷物をたくさん持った人の場合も同じで
止まって待つ

自然に〝あ、ど〜も〜〟と口にしなくても
目で挨拶を交わしながらすれ違う…
のは2割くらいの人
目も合わせずに行く人
合っても無表情のままの人
そんな人がほとんど

別にお礼の気持ちを受けたくてしている訳ではない
〝気を使って〟いるだけ
こうしないと、こうなるだろう
と想像できるから
〝こいつはなんで止まってる?オレのため?〟
とまで思って欲しい訳でもない
思って欲しいと思っても無理な人は無理だろうから

YouTubeでマナー講座をアップしている人がいる
それを全部は見ていないけれど
〝何言ってんの?〟みたいなマナーを
語っていたりするものがある
根拠が全く見えない〝マナー〟が…

お茶碗が左…それが常識…そんな事も知らないなんて
と言う人を批判している人がいた
自分の常識を他人に押しつけるなとか
それ1つで人を判断するな、見下すなとか
そういった意味があるんだと思う

でもマナーとかしきたりには意味があったりする
その動作が1番ムダがないとか
まわりに迷惑がかからないとか

お茶碗が左、も
右利きの人は左手でお茶碗を持って食べるからと
配慮した結果だと思う
相手が左利きだと知っていたら
お茶碗は右、と配慮する
食器を手で持って食べる習慣を持っていない人には
理解できない事かも知れない
そういった気の使い方は必要だと思う

ノラ猫ポチさんの記事のコメントにあった
亡くなった方を見送る時に
〝お茶碗を割る〟という行為
〝戻って来ないで成仏してください〟
という意味があると聞いている
それは死者に対する敬意や思いやりだと思う
いろんな考えやいろんな想いで世の中はできている

なんでもかんでも〝古い〟もの、事、を批判して
昔の人をバカにするのは考えものだと思う
全てではないかも知れないけれど
先人が経験したり考えたりして
残るべくして残ったものには
意味があるはずだと思う

ふと立ち止まって
なぜそう言われて来たのか
なぜその動作になるのか
そう考えを巡らせる気持ちの余裕は必要だと思う

〝正義〟とか〝完璧〟とか
どちらかというと良しとされていたものが
批難されたり批判されたりしている
それが全て良い事な訳じゃないと思う…と
自分なりに考えた上でのものなら
受け入れる気持ちの余裕は持ちたいけれど
自分がやりたくない、できない事を
ただ批難しているだけじゃないかな?と邪推する

職人が手取り足取り教えないのは
自分で考えたり失敗しないと身につかないから
〝今ごろの子はきちんと教えてあげないとダメ〟と
真(まこと)しやかに言うベテラン職人がいた
反論しても
〝そうしないと覚えられないんだよ〟と失笑された
私はその職人…その人を心の中で失笑した

結局どれもこれも
〝思考しない事〟を現していると思う
気を使う、気にかける、思いを巡らす
そういった事ができなくなっているような気がする

思考が停止しているように無表情にすれ違う人たち
それにもやっとしたりゾッとするという話




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