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映画『PLAN 75』の感想

映画館で『PLAN75』の予告編を目にし、
「これはぜひ観たい!!」と思い、映画館へ。
年齢層の高いお客さんに混じって観に行きました。

というわけで、『PLAN75』の作品紹介・公開当時の感想などを書いたものになります。
感想では、ネタバレ配慮なしに書いています。

現在は、Amazonプライムなどで配信されていますので、ネタバレが嫌な方は先に視聴してからお読みいただけましたら幸いです。


『PLAN75』作品情報

(C)2022「PLAN75」製作委員会 / Urban Factory / Fusee

監督・脚本:早川千絵
脚本協力:ジェイソン・グレイ
出演:倍賞千恵子、磯村勇斗、たかお鷹、河合優実、ステファニー・アリアン 他
劇場版『PLAN75』公式ホームページ
視聴等:Amazonプライム、U-NEXTなどで配信中
   (2023年10月時点)


あらすじ

少子高齢化が一層進んだ近い将来の日本。
満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>が国会で可決・施行された。
様々な物議を醸していたが、超高齢化問題の解決策として、世間はすっかり受け入れムードとなる。

夫と死別してひとりで慎ましく暮らす、角谷ミチ(倍賞千恵子)は78歳。
ある日、高齢を理由にホテルの客室清掃の仕事を突然解雇される。
住む場所をも失いそうになった彼女は<プラン75>の申請を検討し始める。

一方、市役所の<プラン75>の申請窓口で働くヒロム、死を選んだお年寄りに“その日”が来る直前までサポートするコールセンタースタッフの瑶子(河合優実)は、このシステムの存在に強い疑問を抱いていく。

また、フィリピンから単身来日した介護職のマリア(ステファニー・アリアン)は幼い娘の手術費用を稼ぐため、より高給の<プラン75>関連施設に転職。利用者の遺品処理など、複雑な思いを抱えて作業に勤しむ日々を送る。

果たして、<プラン75>に翻弄される人々が最後に見出した答えとは―――。
(公式ホームページより)



感想【ネタバレ含みます】

個人的な感想は、”興味深い”という意味あいで、ストーリー・演出ともに楽しく観ることができました。
ただ「観る人間を選ぶ映画」なのかもしれない、という点も強く感じました。

映画鑑賞後に偶然きこえた、主人公ミチに近い年齢、あるいは同年代であろう観客の感想。
「あんなの大きなスクリーンでみるもんじゃない」
自分の耳に届いた瞬間「フィクションなのに・・・・」と
「わからなくもない」という言葉が、頭をよぎりました。
身につまされる思いからか、説明の少ない映画に価値・共感を見いだせなかったか・・・。

高齢者ばかりの健康診断センター内のシーンで、『PLAN75』が美しく、さも”素晴らしいシステム”のように語られるCMが流れる。
突然立ち上がり、CMの流れるモニターをリモコンで消そうとするが消えず、モニターの電源を乱暴に引き抜き、無理やり止めた高齢者男性。
彼、あるいはあの場にいた対象者が皆、「さっさと死ね」と言われているように聞こえたのかもしれない。
そのシーンを思い出しました。

私たち国民も、8050問題や老後2000万円問題などをニュースやネットで見聞きし、「現存の福祉制度では、自分の安心な老後・死は望めないだろう」という予感がつねにある状態になっています。
けれど、自分が考えたり、少々あがいたところでどうにもならないサイズ感の問題。

だから日常生活の中では思い出さないようにどこかへしまい込んでいる問題を、わざわざ映画というフィクションの中で突き付けられたのだから、無理もないか、と。

ストーリーの後半になればなるほど、穏やかなシーンがなくなっていく描き方も相まって、映画を”娯楽”として楽しみにしている層には、相当しんどいかもしれない。
裏を返せば、それだけ『PLAN75』内で提示された問題が、身近な問題に挑んだ作品である、ということの証明になっていたのではないか、と思います。


映画のラストが明示されていないからか、納得いかないという感想も見かけましたが、この作品のテーマに関しては「誰も正解を提示できない」んじゃなかろうか、と。
それと同時に、この映画の中で結論を提示するつもりはサラサラなかったんじゃないかな?とも思いました。


作品の描写としては、映画にありがちな”登場人物の感情を吐露するシーン”がだいぶ少ない印象でした。

「表情や息遣いのみでセリフがない」「間が多い」「場面・人物・事態が大きく進展しない」という余白が多く、言葉少なに挙動・空気で語るという描き方は、私はとても好きな方向性で、久しぶりに頭の中で自問自答しながら観ました。

ミチの肉体の衰えも、”腰が曲がり始める”といったあからさまな表現でなく、呼吸がやや粗くなる・動作が気だるげになる、という些細な変化で表現されていたところも、とても印象的でした。


現実とおなじように「弱者に優しくない」という描写も容赦がなく、とてもリアリティがありました。

ホテルの清掃員として働いていた、ミチの同年代の仲間が仕事中に倒れ、その後「高齢者を働かせるなんてかわいそうという投書があった」という理由で高齢労働者を雇止めにした経営者。

仕事中は仲良かったけれど、仕事のつながりがなくなった途端に元仲間と疎遠になったり気にもかけなくなった同僚。

ハローワークで仕事を探すが、条件に当てはまる仕事が全くない、あるいは明確に求職対象年齢外だからか対応がおざなりだった職員。
求職中のミチに、家賃2年分を一括で支払えたら転居させてもいい、無理なら生活保護を申請されてはどうですか?と告げた不動産屋。
どれも自分の遠くない未来の身近な可能性すぎて、ミチでなくても思わずため息がでました。

確かに生活保護というセーフティーネットは用意されていますが、「自力で不安のない生活を送れる者」と
「福祉を受けなければ生活できない者」の間に挟まっている
「福祉を受けずに暮らせないことはないが、不安のない生活とは縁遠いギリギリのラインでふんばっている者」には、とてもハードルの高いものだろう、といつも感じています。

生活保護申請受理のボーダーラインの難しさや、生活保護者になったが故の縛りもあるだろうし、生活保護を受けるまでには至らないという申し訳なさ、周りの目や、もしかしたら保護を受けたらずっと貧困から抜け出せなくなるのでは、という恐怖もあるだろうか、と。

ミチの同僚、仕事場で倒れた女性が、退院後、自宅で孤独死しているが誰も気づくことがなかった、という描写にもあらわれているように、『PLAN75』では、この”間に挟まってもがいている人たち”がこぼれ落ちている、という現状をうまく描いていたなと思いました。

反対に、これから未来を生きていく若者たちの描き方もとても良かったです。

『PLAN75』申請窓口で働くヒロム。
制度施行後、申請者対応のなかで相手を”人間”ではなく”仕事”としてみるようになっていく中、ヒロムの叔父が『PLAN75』の申請に訪れる。
長い間、顔も合わせていなかった叔父だったが、一緒に出掛けたり食事を取ったりするうちに、ためらいが生まれたかのような様子になる。
叔父を最後を迎える施設へ送った後、そのまま帰路につくはずが、処置を受けているであろう叔父のもとへ急いで戻る。
だが、ヒロムが到着したのは処置が完了した後だった。
叔父の遺体を施設から無理やり連れだし、自ら火葬場へ連れて行く途中、叔父を乗せた車は警察に呼び止められる。

もう一人は、最後の日を決めた高齢者を前日までサポートするコールセンタースタッフの1人、瑶子。

職務上、サポートする高齢者と実際に会うことは禁止されているが「バレなければ大丈夫」とミチと共に喫茶店やボウリングに出かける。
そして、ミチがいよいよ旅立つ前夜。
サポート終了の電話の後に、自分の私用携帯から必死にミチの自宅へ電話をかけるがつながらない。

後日、コールセンター内で行われていた新人への仕事内容の説明を聞きながら、何かを決意したような表情を見せた後、場面が切り替わる。

最初は、ただの書類上・電話越しの”どこかの高齢者”という漠然とした相手が、現実に接することで、”現実に存在する・意思も感情も生きてきた時間を有する人間である”という自覚と、高齢者・制度への自分の意見が芽生えた時の人間味のある描写がとても心に残りました。

登場人物とは別の点から。

「自らの死を選択できる制度」が制度化されるような世界になっても、未だに人間の介護は人間が担っているという描写は、私たちの現実と地続き感がありすぎてとても滑稽だな、と感じました。

介護職がつねに人員不足で、かといって介護職の環境が改善される様子もなく・・・。
介護される人間の数は増え続ける未来には、ロボットが可能な限り人間を介護をするようになるんじゃないか、というようなSF世界を想像していましたが、その未来はまだまだ遠いようですね。

また、劇中で流れるニュースでは「プラン利用者が増え、明るい未来が見えてきたと専門家がコメントしています」というセリフがあり、よくわからない自称”専門家”が、あたかも制度が成功を収めているようにテレビで述べているであろう様子。
「プランが好調のため将来、段階的に65歳まで対象年齢を引き下げる可能性もある」というニュースアナウンス。

すでに崩壊しかかっている年金制度や福祉制度を抜本的に改革するのではなく、”支えられないならあぶれる所を減らしてしまえばいい”という、端的だか短絡的だかな思考も、まさにリアル日本そのままだな、と感じ笑いを禁じえませんでした。


今回の『PLAN75』は、限りなく現実に近い未来の延長と捉えられることができるが、映画である以上”フィクション”である事に変わりはない。
ただ、『PLAN75』をフィクションを前提、かつ対象者を”自分1人に対して実行される制度”として、可否を考えるのならば、私はこの制度はアリだと考えました。

最近の日本でこのような話になると、何故か主語が大きくなりがちな傾向がありますが、あくまで「貴方1人のために作られた制度です。貴方は利用しますか?」と問われれば「”私は”YESの回答を出す可能性がある」というだけです。

実は私は、20代の頃にがんサバイバーになりました。
その治療の際、GVHDという症状で数日間、全身の激痛の中で「痛い、苦しい、なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか、早く終わってしまえ・・・!!」という考えだけがずっと頭の中を占めていた事があります。
その後は、鎮痛薬を持続的に点滴されていたので、あまり記憶がありません。

『PLAN75』は健康状態に関係なく75歳以上が対象の制度でしたが、もし私がうけた治療時の苦しみが治らず、一生続くなかで死を選択する権利が与えられたなら・・・。

あるいは将来自分が、「人間らしい生活」から滑落し、何十年も息を殺すように生き続けなければならない、「人間らしい生活」に戻ることがかなわない、というような苦痛が続くならば、自分はそれを選ぶ可能性があるかもしれない、と本当に思いました。


自分自身、収入面でも将来不安がつねにあり、将来は天涯孤独、気が付いたら1人部屋の中でデロデロに溶けて孤独死してんじゃないかな?と考える事がけっこうあります。

『PLAN75』の制度では、処置直前・処置中に、拒否することができる。
つまり、自分の意志で生きて帰ることも認められています。
生きる権利も死ぬ権利も認められた中で、お金のない単身者の死後処理(火葬や共同墓地への埋葬、荷物の引き上げ等)を行政が行ってくれる制度は、ある意味、心強いと思いました。


単身者個人で行おうとすると、結構な金額もかかるがお金はない。

遺体を放置されたら大家さんが困ってまた高齢者を入居させたくない。
では、高齢者は路上生活を行うのか?
だが劇中でもあった”公園のベンチで人間が横になって寝られないように手すりを付ける”という事は現実にもあるようで。

では結局、どこからも追い出された人間は山や街中で野垂れ死ぬしかないのか、どうすればよいのか?
どこか受け皿になる場所があれば、死後の心配だけはしなくてすむのではないか、と。

ただ、『PLAN75』を利用し、最期を迎えた方・それを取りやめた方。
健康診断センターのシーンでモニターの電源を引き抜いた男性しかり、
いつまでも長生きしては悪いといったミチの同僚しかり。

自分はこの制度を利用する可能性がある、と思った反面、同調圧力だけで
"自分の死"という、おそらく人生最大であろう恐怖は乗り越えられるもの
なのだろうか?という考えも浮かびました。

「条件に該当する人間はすべて、この制度を使用することが義務である」
とは、誰にも言われていません。
世間的な意見や風潮があるにしても、最後の選択をするのは、”自分の意思”です。

その部分は友人や家族。
どれだけ身近な人であろうと、”他人”の意思とは切り離して考えなければならない部分だと思っています。

ヒロムの叔父とミチの最期が正反対に描かれた理由も、そこにあるのではないか、と感じました。

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