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放浪者が信じるもの

 ”信じる力は世界を救う”。そんな言葉をどこかで聞いたことがある。とは言っても私は、自分の正義を信じて世界の平和を守りたいわけでもなければ、悪を退治するヒーローになりたいわけでもない。ただ、在りのままの世界を見たいだけだ。
 世界は人間の思い込みや決め付けで溢れかえっている。地球上に何億人もいる人間のそれらによって、世界が成り立っていると言っても過言ではないとさえ思っている。例えるなら、そう、チョコミントを例に出してみたらどうだろう。美味しいと思う人もいれば、歯磨き粉の味がすると言う人もいる。人間にだってそうだ。君がかわいいと思うあの女も、かっこいいと思うあの男も、他の誰かからすれば違うかもしれないし、もっと言えば動物から見たら人間は人間だ。究極、私たちが価値の塊だと思い込んでいる金や銀、硬貨や紙幣というやつでさえも、縄文人から見たらまったくの無価値だ。そしてそれはほぼ全てに当てはまってしまう。クールかダサいか、高いか低いか、面白いか面白くないか、色の見え方だって人間と動物で同じとは限らないだろう。

 じゃあ、最初から最後まで絶対的なものってのはあるんだろうか。
 かけがえのないもの。それは一般的に言えば、家族や家庭がそうであるらしい。世のため人のために働く人にとっては、世と人がそうであるらしい。響きの良い言葉に聞こえるが、その言葉にも私は猜疑心を抱くときがある。それすらも思い込みなんじゃないかと感じるからだ。そして、残念なことにそれも全ての人に当てはまるとは限らない。ここにも十人十色が存在しているんだ。それは私がまだ、そういったものを持てていないからだとも言えるが、実際にそれと離れてみると案外人間は、それが無い環境に順応していくんじゃないのかと疑ってしまう。それは私が生まれてこの方、執着を持てなかった人間であるからに他ないのだと、そう思う。
 でもしかし、かけがえのないものが明確にある人とない人間では、原動力に差がでてきてしまうのは確かだろう。これは自分にとってかけがえがないんだと、信じきれるものが一つでもある人は強い。だから私はまだ弱い人間なんだ。私は留まることが苦手だ。流れる水は淀まないように、常に流動的に生きていたいと心のどこかで思っているのだろう。それは同時に、誰かの思い込みや決め付けに流されやすいんだとも言える。だから、何千年も生きる大樹のようにブレがない、絶対的なものに惹きつけられ、それは何かと模索してしまうんだ。

 そして私は、絶対的なものの正体が分かってきたような気がしている。それは、存在自体の奇跡なんじゃないか。欧米人に言わせれば、”IT BE”だ。そして、それは”I AM”だ。誰かからの決め付けや、自分自身がしていた思い込みを全て取っ払った後にぽつんと残る、大きくも小さくもない裸の存在。美味しくもなければ不味くもなく、クールでなければダサくもなく、面白くもなければつまらなくもない。つまり、在りのままの世界。そこに存在している自分もまた、最初から最後まで在りのままだったんだ。そして、それを信じきれるとき、かけがえのない存在自体を信じきれるようになるとき、はじめて私は本当の意味で在りのままを生きることができるんじゃないか。
 ”信じる力は世界を救う”という言葉は、”信じる力によって私は生きることができる”という意味なんだと、私は信じはじめた。

#psychonaut #psychonote #毎日note  

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