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選べても、選ばないという選択。

選択肢があるとき、どうやって選ぶのか。

ふと考えたときに、私は、「やりたい・やりたくない」よりも、「ありたい・ありたくない」が判断基準として上位にあるのを感じた。

美学というのか、「こうありたい」という像をイメージして、それを判断の基準にしている。

理想と現実は違うし、理想ばかりじゃうまくいかないなんてことはわかってるけど、それでもかっこよく生きたいのが私なんだなと。

でも案外、「どうありたいか」だけじゃなく、「どうありたくないか」というのが、自分をつくっているのかもしれない。


たとえば、

目標達成のために、人を傷つけたり、疑念を抱かせたりしてでも最短で行ける道を選ぶのか。

それとも、

人を傷つけないでも目標達成できる方法を必死に探して、失敗覚悟で努力するのか。




前提条件や場面によるとは思う。

でも、できるだけ後者を選んで、さらに、ちゃんと結果まで出せる人間でありたいなと強く感じている。

「成功するためには何かを犠牲にするしかない」とは、思いたくないというか。

まずは自分の倫理観と照らし合わせて、「むやみに人を傷つけるような自分ではありたくない」と思う。

そしてその道を選ぶことを、「ただの美談に終わらせない自分でありたい」と思う。

失敗覚悟で後者を選ぶとはいえ、そこに甘えてはいけない。「がんばったね」で終わらせない。言い訳を探さない。ということ。

だから、ただがむしゃらに努力するというよりは、考え抜いて、結果につながる工夫をする。


もちろんこの2つの選択の場合、「一時的に人を傷つける形になっても、それが後々、その人にとって大きな実りになって返ってくる」という確信があれば、前者を選んでいいと思う。

でも、じゃあその「確信」をどうやって得るのかといえば、自分の肌感覚でしかないわけで。

選ぶ際に、「なんとなく明るいイメージが湧く」とか、「なんとなく苦しさがある」というような、直感に近いもの。

これは常に研ぎ澄ましていかないと、選択が軽くなったり、意図と違う方向に向かってしまう。


そしてその肌感覚のベースになるのが、「どうありたくないか」なのかもしれない。

「そんな自分は嫌だな」「それってなんか違うんじゃないか」と思える基準を持っているということ。


それが自分の選択に納得感を持たせてくれるし、後ろめたさを感じずに選べる要因になっていくんだろう。


何で急にこんなことを語ってるんだろうと、冷静につっこむ自分もいます(笑)。

でも、この美学は曲げずにいたいなと思うのでした。

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