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【映画評】 坂本あゆみ『FORMAフォルマ』。眼、箱女

坂本あゆみ監督『FORMAフォルマ』(2013)は、またもや「とんでもない映画を見てしまったもんだなあ」と、わたしの思考を混乱させる。「とんでもない映画」とは、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督『追憶のマカオ』(2012)とその周縁となる同監督の他作品との「間・物語」のこと。

しかし、『FORMA』の場合、このとんでもなさとは物語という時間の推移ではなく、フレームへと注がれる眼のことである。
『追憶のマカオ』ではフレームの〝内/外〟を横断する「間・物語」であったのに対し、『FORMA』では、「間・眼」という、物語とは別の構成要素、映画の唯物的な事態においてである。
(文末リンクの拙文「ジョアン・ペドロ・ロドリゲス & ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ共同監督『追憶のマカオ』 桃色に染まる脳細胞」をお読みいただければ幸いです)

『FORMA』を見るわたしたちの眼はどこに向かうのか。それはフレームの背後であると思われる。フレームの背後とは、光学機器により投影されたスクリーンの背後ではなく、カメラの後ろという即物的な意味においてであり、それは残酷なほどに物語をカメラの背後へと向かわせる。
映画を見る者の眼はスクリーンのフレームに定着しているはずなのだが、それと同時に、カメラの背後に留まろうともする。そのことで、2人のヒロインである由香里(松岡恵望子)と綾子(海野渚)の関係は至る所で停滞と誤解を生み出し、そのことが憎しみの増幅と錯綜を生み出す。正確には、自己と他者との関係性の疎と稠密を同時に生み出すのである。

本作品の物語はスクリーンというフレーム上で進行するのではなく、カメラの背後に止まる奇妙な事態を生じさせる。スクリーンに定着されるはずの映画が、カメラの背後へと留保されるという興味深い現象を見せるのである。

それは映画の冒頭からあった。カメラはフィックスの長回しで綾子が務める事務所を捉えるだが、カメラがやや引きになると、フレームには事務所の外部の光景と網目が薄く写り込む。後に分かるのだが、カメラと事務所は、ビルの、網目のワイヤー入り窓ガラスで隔てられているのである。映画を見るわたしたちは、ビルの外部から綾子を覗き見るという窃視者としてあり、また、監視カメラを通した映像が映画館のスクリーンに投影されているような感覚にも陥いる。フレームは、カメラの背後の眼といういまひとつの見えないフレームを通して既に写されているのであり、わたしたち映画を見る者は、ただそのフレームを覗いているに過ぎないとも思える。

坂本あゆみ『FORMA』-1


この作品を見た者なら、だれもが忘れ得ぬシーンがある。事務所におかれた段ボール箱。
綾子はその箱を頭に被るのだが、それは〝見る/見ない〟の行為ではなく、カメラの背後の眼、あるいはカメラオプスキュラ、つまり、隠された眼としての綾子、「箱女」なのである。そして、その隠された眼はひとつではなく、匿名としての街頭や綾子の父の職業として覗いているビデオ編集用フレームでもある。レイヤーのように眼を複層化されることで、眼前の事態を再現(=異なる眼による反復)することになる。

物語としては、父を誘惑し、家族を破壊した女友だち由香里への綾子の周到な復讐譚でもあるのだが、隠された眼は語ろうとするのではなく、綾子による復讐譚を眼の前の事態として再現(=反復)するのである。この作品がとんでもない映画であるとわたしの思考を混乱させたのは、物語の、悲劇として呈示される時系列ではなく、事態の、残酷なほどの再現(=反復)の試みであるからである。

そして、この眼は、ジャン=クロード・ルソーをも想起させる。それは、フレームにより世界を記述するのではなく、フレームは既に複数存在するのであり、フレームを配置することで、世界がわたしたちを捕まえるということである。そして、そのことで、他のイメージ(事態Aから事態A’への推移)と出会うのである。

その出会いを創生させるのはカメラであり、投影される光の粒子であり、見ているとしか言いようがない、自己とも他者とも判断がつかない眼なのである。その眼はある種の超越性と普遍性をも両義的に備えた形式であり、FORMAの意味するものは、そのことにつきるのでないだろうかと思ったのである。

『FORMAフォルマ』は、毎年、師走の数日間、京都市の出町座で上映されてきました。今後については不確定です。

(日曜映画批評:🌱kinugawa)

『FORMAフォルマ』予告編


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