《映画日記11》 三隅研次作品、ブルンヒルデ・ポムゼン、ほか
(見出し画像:『ゲッペルスと私』)
本エッセイは
《映画日記10》アルゼンチンの監督マティアス・ピニェイロ(覚書)
の続編です。
このエッセイは私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
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三隅研次『大菩薩峠』(1960)
大映男優祭が開催されている。市川雷蔵主演作品を見る。
「女は魔物」。机龍之介の台詞なのだが、魔物ゆえに女が龍之介を狂わすということだ。もしそうだとするならば、『大菩薩峠』の女はファム・ファタルである。だが、女が魔物であると認識するのは龍之介なのであり、女(たとえば、お浜)そのものは魔物としてあるのではない。『大菩薩峠』の面白さはそこにある。
ファム・ファタルには強靭な円環構造(注1)がある。それは揺らぐことはなく、それゆえに男は円環に翻弄され身を滅ぼす。円環とファム・ファタルとしての女は同値であるといってもいい。だが、『大菩薩峠』の女は円環を構造として持つことはない。むしろ、「女は魔物」と認識することで、龍之介は自らに円環構造を発生させる。その円環は脆弱であり、その脆弱さゆえに不条理なほどに恐怖を発生させる。ここでの脆弱さと恐怖は、女を魔物と認識する主体である龍之介の、外部を意識するあまりの内在的・自然発生的(spontaneous)現象としてあり、お浜を殺めることの悪の対立としての刹那を龍之介自身が感じることになる。そこに、眠狂四郎(注2)へと繋がるニヒリズムの萌芽を見出すことができるかもしれない。
(注1)ファム・ファタルの円環構造については、ファスビンダーとクリスティアン・ペッツォルトに関連して書く予定である。
(注2)市川雷蔵の代名詞ともいえる『眠狂四郎』シリーズが始まったのは1963年。1969年まで11作品が製作された。そのなかで、三隅研次監督作品は、『眠狂四郎勝負』(1964)、『眠狂四郎炎情剣』(1965)、『眠狂四郎無頼剣』(1965)である。
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ユン・ジェホ『マダム・ベー ある脱北ブローカーの告白』(英題)MRS.B.A NORTH KOREAN WOMAN韓・仏(2016)
監督ユン・ジェホは韓国釜山出身。1980年生まれというから、監督としては若い世代だろう。私にとり、本作ではじめて知る監督である。フランスのナンシー国立高等美術学校エコール・デ・ボザール、パリ高等装飾美術学校、ル・フレノワ国立原題芸術スタジオで美術、写真、映画を学んだという。
その後、短編『豚』(2013)を台湾の女性監督シンイン・チェンと共同演出。
短編劇映画『ヒッチハイカー』(2016)は、『マダム・ベー ある脱北ブローカーの告白』とともに、2016年カンヌ映画祭の監督週間で上映されている。
北朝鮮がらみで言うと、私はチョ・ソンヒョン『ワンダーランド北朝鮮』を見ている。西側諸国が喧伝する北朝鮮ではなく、たとえ監視つきであったとしても、自らの眼で確かめようと北朝鮮に赴き、ダイレクトな眼差しで製作したドキュメンタリー作品だった。朝鮮統一を願う監督チョ・ソンヒョン。そこにあるのは北朝鮮へのオプチミスト的な愛であった。だが、ユン・ジェホ『マダム・ベー ある脱北ブローカーの告白』には、『ワンダーランド北朝鮮』でみるオプティミスムはない。10年前、家族のため1年間だけの中国への出稼ぎのはずが、騙され、貧しい農村へ嫁として売り飛ばされた北朝鮮女性B(ベー)。彼女にあるのは、生きることの強靭さと北への憎悪である。それは監督ユン・ジェホの意志の反映としてあるのではなく、マダム・ベーの眼差を通した家族への愛と北朝鮮への憎悪である。わが子を思う母親としてのマダム・ベー、憎むべき対象である中国人の夫と義父母を受け入れるマダム・ベー。
彼女は中国と北朝鮮の家族を養うため脱北ブローカーとなる。北朝鮮に残してきた息子たちの将来を案じた彼女は、息子たちを韓国へ脱北させ、自らも過酷な脱北の旅へと出る。命からがら辿り着いた韓国で、彼女を待ち受ける苦く辛い日々。生死を越えて彼女を追い詰める。だが、いまは韓国に脱出した北朝鮮の家族を思うマダム・ベー。そこには、母として、そして女としての葛藤がある。
生は愛と憎しみに満ちているなどと然り顔はしたくないけれど、精神も肉体も分断されたマダム・ベーに安らぎはあるのだろうか。ラストのカラオケシーンでマダム・ベーは歌う、「私は幸せ……」。本作の70分は、映画のラストであるこのシーンの序章のようにも思え、カラオケが映画音楽を凌駕するという事態に、館内の照明が灯った後もしばらく立ち上がれなかった。
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アンゲラ・シャーネレク『Mein langsames Leben私の暖やかな人生』
トマス・アルスラン『Geschwister兄弟』『Der schöne Tag晴れた日』
ドイツ・アマゾンから3点のDVD届いた。
プレーヤーが読み込むかを確認のため、試しに冒頭部を再生してみた。
アルスラン作品はのっけから人の移動ではじまる。『休暇』の移動は夫婦という二者の関係の変質を導いたけれど、今回届いた『兄弟』『晴れた日』の移動は価値の交換を生み出している。ロードムービー以外で、移動を、これほどまでに魅力的な物語の生成装置へと変位させた監督を、アルスラン以外に私は知らない。
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クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー、オーラフ・S・ミュラー、ローラント・シュロットホーファー『ゲッペルスと私』(原題)A German Life(2016)
私たちは、たとえどの時代であっても、「時」の森のなかにいる。その森のなかで、人々は異なる地点からやって来たさまざまな道が集まる放射状の交差点に佇む。そこで、「自己」という主体は道の選択を迫られるのだが、その「自己」とはとりあえずの主体でしかなく、歴史という「時」のなかで、「自己」などというものはないのではないかと思えてくることがある。
編集やカメラが介在しているにしても、歴史家の語りではない第一次の語りには、時間を隔ながらも現在への地続き感がある。1942年から終戦までの3年間、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスの秘書を務め、もっとも冷酷な戦争犯罪人のそばにいた若きブルンヒルデ・ポムゼン。本作はポムゼンの語るあの時代の「私」である。映画を見ながら、それを現代日本社会の「私」総体と重ね合わせてみたくなった。「私」総体とポムゼンに差異はあるのか、ほぼ同値であるように思えた。本作は戦争の残虐性をアプリオリとしているのだが、より重要なのは時代における「私」である。より正確には私の「精神」なのだが、その「精神」の生成の主体は私なのではなく、他者としてコントロール不可能態としてあるということを、本作は雄弁に描いている。
とはいうものの、気になる点もあった。ポムゼンの語りに戦時中の16ミリフィルムで撮った記録映像が挿入されるのだが、本編の精細な映像と16ミリの粗い映像、二者の落差が私を躊躇わせた。ボムゼムを捉えた現代のデジタル映像と70年前の16ミリフィルムによる構成。それは映像の解像度の落差として表れるのだが、ポムゼンを捉えるのに、あえて高精度デジタルカメラを使った理由はなになのか。高性能カメラを使った理由はおそらくこういうことだろう。それは、103歳のポムゼンの顔に刻まれた深い皺を、いわば超リアリズム的に捉えることに意味があったということである。さらに皺を際立たせるストイックな照明。皺とは、現在という時制を生きる存在であると同時に、過去時制を過剰に刻み込んだ存在、ということである。皺には歴史とその表情が刻まれている。歴史の真実がひとつなのだとすれば、ポムゼンの皺こそが真実であり、そのこと以外に真実はない。映画『ゲッペルスと私』はそう語っているように思えた。だとするならば、16ミリフィルムの挿入は不要なのではなかったか。毛沢東が1957年に発動した反体制狩りである反右派闘争の犠牲者のひとり、ホー・フォンミンの独白を撮ったワン・ビン『鳳鳴(ホー・フォンミン)—中国の記憶』のように、1人称の語りのみで構成もできたのではないのか。
16ミリフィルムの粗さと高精度デジタルカメラの精細さの対比による時代の立ち現れ、もしくは16ミリフィルムの記録映像によるポムゼンの時代の担保・補強という考えも可能なのだが、本作で特筆すべきはポムゼンの皺の真実であり、それ以外に真実はないのではないか、と私は思ったのである。
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衣笠貞之助『地獄門』(1953)
「うつけ者」は自らがそうであると気づくことはなく、乖離する他者が出現することではじめて自らを「うつけ者」と気づく。盛遠は心惹かれる袈裟の死によって自らを「うつけ者」と気づくのだが、その意味では、衣笠貞之助『地獄門』を悲劇と呼ぶことはできないだろう。しかし、やがて決まるであろう三選でヒトラー似の彼の者は自らを「うつけ者」と気づくことはないという日本の悲劇。
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数日間、東京暮らし。美術館、映画館を巡る。
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東京の原美術館で《小瀬村真美:玄画〜像(イメージ)の表皮》を鑑賞。
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《杉浦邦恵 うつくしい実験 ニューヨークとの50年》@東京都写真美術館
杉浦邦恵の作品をはじめて見たのは1980年代だったろうか。川崎市民ミュージアムか東京都現代美術館だったと思う。そこで見たのは、今回の展覧会でも展示されているレントゲン写真のインスタレーションと4枚の大きなプリントで製作した『電気服にちなんでAp2、黄色』だったと記憶している。当時の私にとっては写真の概念を逸脱した衝撃的な写真作品だった。その先駆的な作品群は、未だに色褪せない新鮮な印象を受けた。日本で美術教育を受けることなく、御茶ノ水大学物理学科中退して渡米。そのことが彼女の先駆的写真製作に功を奏したのかもしれない。科学や美術に限らず、日本の教育は人が育たない。映画も然り。
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渋谷のイメージ・フォーラムでジャック・タチ映画祭
3本見る。
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ジャック・タチ『プレイタイム』(1967)
ガラスの超高層ビルや空港・博覧会場・アパートからなるモダニズム建築群をパリ東部に建設した「タチ・ヴィル(Tati Villeタチの街)」。当時の為替レートで換算して約1,093億円!を注ぎ込み、高画質の70mmで撮った作品。映画芸術の頂点と言われているが興業的には大失敗で、タチを破産に追い込んだ大傑作である。
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ジャック・タチ『短編セレクション』(1946〜2000)
『郵便配達の学校』『ぼくの伯父さんの授業』『家族の味見』『フォルツァ・バスティア’78/祝祭の島』
チャップリンの庶民的な泥臭さやキートンの曲芸的奇抜さとは異なるキレのあるエレガンス溢れるタチ。チャップリンやキートン作品をソフトで所有したいとは思わないけれど、タチ作品は所有欲をくすぐる珠玉の小品集である。
『フォルツァ・バスティア’78/祝祭の島』はほとんど試合を写さないドキュメンタリー。ひたすらコルシカのサポーターたちにカメラを向ける。このフィルムを見たクラブ会長は何を思っただろうか。あるいは見せていない? タチがこんな作品を撮っていることを私は知らなかった。
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ジャック・タチ『パラード』(1974)
タチのセミドキュメンタリーフィルム。フランスのサーカス団のドキュメントでありながらフィクショナブルな素振りをも見せる。『フォルツァ・バスティア’78/祝祭の島』とも繋がるかもしれない。
*矢崎仁司『スティルライフオブメモリーズ』(2018)@新宿K’sシネマ
日記として書き始めたら長文になってしまった。詳細は以下のサイトを。
*『AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展』@東京21_21 DESIGN SIGHT
私たちが普段なにげなく親しんでいる音楽を、音色、音域、音量、リズムといった要素によって緻密にデザインされた構築物(アーキテクチャ)と捉えた気鋭の作家たちによる展覧会。音楽はミュージシャンの小山田圭吾(Cornelius)が書き下ろした新曲『AUDIO ARCHITECTURE』。この楽曲を気鋭の作家たちが自由に解釈し制作した映像作品からなる。Wonderwall片山正通がデザインしたダイナミックな空間がそれを支える。
気鋭の作家たちとは、稲垣哲郎、大西景太、折笠良、梅田宏明、勅使河原一雅、UCNV、水尻自子、ユーフラテス(石川将也)+阿部舜、辻川幸一郎×バスキュール×北千住デザインである。
音楽を建築物と見做すことの面白さ。音楽は構造を持つものだから、それを建築と捉えることは少しも不思議なことではない。たとえそれが感覚的につくられたとしても、たとえば楽器間の反応・対立やリズムが作り出す音の空間化はそれ自体で建築物であり、それを解体し再構築することは、作品の2次創作ともいえるクリエイティブな作業である。そのような展覧会がつまらないはずはない。
この中でとりわけ興味を覚えたのは、『Another Analogy』と題されたUCNVの映像作品。次のような解説がつけられている。「構造の崩れたデジタル画像の美学を描くUCNYによる映像作品は、正常な映像と、その壊れたバージョンを併並置することで、楽曲の歌詞の「対義語の対比」という構造に呼応している。キーフレームと呼ばれる、映像を構成する各フレームが参照するべき正しいピクセル情報を意図的に削除することによって、ループの終点の画像は引きずられ、中身が溶け出る。元々は同じ内容を写しているはずの二つの映像は互いに異世界のリアリティを喚起させ、音も聴こえ方までもが歪曲(クリッチ)される。」
上下に2分割されたフレーム上の映像。本来は同じソースの映像(都市の映像)なのだが、上方はピクセル(情報)には手を加えない映像、下方はピクセルを意図的に削除した映像が投影されている。ピクセル操作による対義語のような映像・構造の創出。それは、《正常/異常》という対の表現に置き換えられるような気もするのだが、実のところ、どちらが正常でどちらが異常なのかは定かではない。これは、「対義語」による世界の分割への問い直しなのかもしれない。実はこの世界、ゲノム操作による世界と呼応していて、ゲノムというピクセルで構成されている私たち身体でもあることに改めて気づかされる。
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久しぶりに会った東京時代の友人と渋谷で飲み会。
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東京から京都に戻る。その前に、東京で映画3本見る。
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フィリップ・ガレル『つかのまの愛人』(原題)L’amant d’un jour(2017)「愛の力学〝彼と彼女と彼〟あるいは〝彼女と彼と彼女〟」。ひとりの男をめぐる女たちの奇妙な共犯関係をフィリップ・ガレルがモノクロームの映像で描く。なかなか刺激的な作品だった。詳細は下記webを。
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レナ・ダナム『タイニー・ファニチャー』(2010)
本作はマンブルコアの映画。私にとりマンブルコアの映画は“受容/反受容”の振れ幅が大きい。
『フランシス・ハ』と『レディ・バード』は私の受容外だったけれど、『ハンナだけど、生きていく!』『タイニー・ファニチャー』はもう一度見たい。
『ハンナだけど、生きていく!』は論考として書いている。興味があれば下記webを。
《映画日記12》
に続く
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
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