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《映画日記10》 マティアス・ピニェイロ作品

(見出し画像:マティアス・ピニェイロ『みんな嘘つき』)

本エッセイは
《映画日記9》瀬々敬久、ホン・サンス作品、ほか
の続編です。

あらゆる対象にはふたつの方向性が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びている。

(マルセル・プルースト)

《映画日記》には日常の事柄(出来事に限らない)を書くこともあるのだが、おおむね、映画を見た印象を書いている。単なる心象にとどまこともあるのだが、できるならばもう少しその先へと進みたい。その先へとは自己と接続するということで、ただ映画を見る過ぎない私を世界とより深くで触れ、自己のなかに世界を見出したいと思う。これが映画を見ることの意義であり快楽でもあるのだが、すべての映画においてそれが可能であるというわけではない。自己へと触手を伸ばすことが叶わず、私の眼は、対象にとどまるしかないこともある。

と書きながら、冒頭の引用文が頭に浮かんだ。これはマルセル・プルースト『失われた時を求めて』の「見出された時」の一文なのだが、プルーストが述べる「対象」を「映画」に限定したとき、私の思考が対象のなかに収められているにとどまり、私自身のなかに対象を伸ばそうとしても私の思考能力を超えて拒絶さればかりで、私に伸びてこない対象に遭遇し、苛立つことがある。つまり、対象が外部にとどまり、たとえ自己へ落とし込もうとしても矛盾が生じるばかりで、これはもう手がつけられないなあ、と断念することがあるのだ。プルーストによれば、「われわれ自身のなかに伸びて」こそ、それが「われわれが知ることのできる唯一の部分である」というのである。対象を知るとはそのような限定された様相のことなのだ。ならば、対象の自己への内部化ではなく、自己を対象へと落とし込む、自己の対象への外部化を企てるしか手立てはない。それが対象を理解する、この時点での最善の方法であると、とりあえず考えた。そんな風な、諦念にも似た考えに至らしめるのが、アルゼンチンのマティアス・ピニェイロ監督作品なのである。
『映画日記』に、その思考の飛び散った痕跡、破片のようなものを書き留めようと試みた。

このエッセイは私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 


マティアス・ピニェイロ作品連続上映

2017年、マティアス・ピニェイロ作品連続上映があった。
彼の監督作品は「アルゼンチンの至宝」とまで評されているが、日本で上映される機会が少なく、彼の作品に接した人は多くない、というよりも少ないのではないかと思う。
アルゼンチン以外の国でのマティアス・ピニェイロ作品の受容はどうなのか。フランスの「Le Point(ル・ポワン)」誌に2017年の記事がある。記事によると、
これまで紹介されることの少なかったマティアス・ピニェイロ。トゥールーズやナント(注:フランス南西部の都市)のラテン系映画祭で上映される程度だったが、35歳の彼は、アルゼンチンで最も才能ある現代映画作家のひとりである。ブエノスアイレスやロカルノの映画祭ではたびたびノミネートされ、受賞を果たしている。今回、パリのジュ・ド・ポーム美術館で、彼の作品にオマージュを捧げる回顧展が開催される。商業映画界での彼の不在を改善しようとする試みである。この回顧展で、6作品が上映される。

フランスでこの程度なのだから、日本での知名度のなさは当然かと思いきや、2015年12月、東京のアテネ・フランセで、マティアス・ピニェイロ映画祭2015が開催されている。上映作品は『みんな嘘つき』『ロザリンダ』『ビオラ』『フランスの王女』の4作品。『フランスの王女』は、映画祭開催時点での最新作である。東京に住まない私は足を運ぶことができなかったのだが、幸いにも、京都の同志社大学寒梅館で『フランスの王女』の上映があり、この1作のみ見ることができた。その日の『映画日記』に、私は次のように記している。

『フランスの王女』はキスに満たされている。ビクトルは彼を知りすぎた女たちにキスをする。でも、キスをしたからって恋が成就するわけじゃない。愛は甘美であり残酷でもある。そういえば、ルドルフ・トーメ『紅い部屋』(2010)はキスの映画だった。「キスって、バクテリアの口内交換」という台詞があったけれど、キスで免疫力が増すってこと?過剰なキスは恋のときめきを減退させることもある。

今回の連続上映について書く前に、監督の来歴について調べてみた。

マティアス・ピニェイロ(Matías Piñeiro)
1982年、ブエノスアイレス生まれ。
国立映画大学で映画を学び、後に同校で映画史と映画制作の講義も行う。
彼の長編第1作は、作家でありアルゼンチンの大統領も務めたサルミエントが亡命先のチリで著した「ファクンド−文明と野蛮」などに着想を得た『盗まれた男 El Hombre Robado』(2007)。この作品はチョンジュ国際映画祭でグランプリ受賞している。その後の作品もベルリンやロカルノをはじめとする国際映画祭で関心を集める。
2011年にハーバード大学のフェローシップとして渡米。2014年には、傑出した若い才能に対して与えられるリンカーン・センターのMartin E. Segalアワードを受賞。
現在はニューヨークで映画製作を教えるほか、デンマークのCPH:DOX LABのプロジェクトでロイス・パティーニョと共に『Ariel』を制作。

マティアス・ピニェイロ監督

今回の日本での連続上映プログラムは
長編第2作目『みんな嘘つき』(2009)
そして
シェークスピア翻案シリーズ4作品
第1弾「お気に召すまま」による『ロサリンダ』(2010)
第2弾「十二夜」による『ビオラ』(2012)
第3弾「恋の骨折り損」による『フランスの王女』(2014)
第4弾「夏の夜の夢」による『エルミア&エレナ』(2016)

の5作品である。

冒頭に記したように、以下の記述は、作品論や感想というより、思考の飛び散った跡であり、矛盾は矛盾として留め、整合性を求めようとしなかった。それは、整合性を求めることは、(私の能力ではという限定において)作品が痩せる要因ともなるからである。もっとも、思考とは矛盾の堆積体なのだが…。

以下、製作された年代順に作品の印象を述べるのだが、今回上映されなかった長編第1作『盗まれた男』については最後に触れる。未見のため、海外のwebを参考にした。


『みんな嘘つき』75分Todos mienten(2009)

長編第2作である本作も長編第1作と同じく、アルゼンチンのサルミエントの著作から想を得ている。
ここは辺鄙な田舎の一軒家。アルゼンチンの歴史家の末裔と思われる若いアーティストのグループが集う。

エレナはマイクに向かい、とある家系の年代記を語っている。サルミエントの著作をカセットに録音しているのだ。「長女が生まれると親は死ぬ」という謎めいた家系の語り。人里離れた一軒家に集まった8人の若者たちはサルミエントの末裔なのだろうか。目的はよくわからないのだが、彼らは共に語らい、酒を飲み、隅々でそわそわとキスをしたりして愛し合っている。だが、彼らの生活にサルミエントの年代記が次第に織り込まれ、監視と陰謀が静かに交錯しはじめる。田舎の一軒家という閉じた空間に、サルミエントの世界が侵食する予測不可能な様相を呈する。

本作で最も興味深いのは、文字テキストをカセットに録音し、それをタイプに打ち込むという二重の操作である。それは、文字テキスト→録音→タイプ、つまり、視覚化→音声化→(再)視覚化という循環運動とそれぞれの行為による遅延の発生である。これを図式化すると次のようになる。

著作物=テキストの文字による視覚化
  ↓
読む=音声化(カセット録音)→ 遅延
  ↓       ↓
  ↓    録音された音声をタイプに打つ
  ↓                    =(再)視覚化(注1)→ 遅延
日本語字幕=テキストの視覚化(注2)

(注1)「タイプに打つという歴史のトレース→録音というトレース」、つまり「トレース(タイプ)という反復→トレース(録音)という反復」は遅延でもあり、単なるコピー(A→A)ではない。A→A’という変換のことである。その意味では、イザベルの贋作制作も変形された反復である。銃の暴発により気を失うというモニカの芝居も、エレナとモニカが仕組んだ嘘、つまり、真実の変形、変換=反復でもある。
(注2)日本語字幕=視覚化→音声化したにもかかわらず、字幕という二言語間(スペイン語→日本語)の通行により発生する再視覚化という反復操作、そして単一言語ではない二言語間のコミュニケーション・表現という言語の特異性・辺境性。ここにもコミュニケーションの遅延(ズレ・誤変換を含む)が発生する。

朗読によるカセットへの録音→タイプに打ち込むという再視覚化。ここではテキストの変形が発生する。間違って読むことによる変形、タイプの打ち込みミスによる変形。テキストの遅延に止まらない変形が生じる。そして、「エレナのベッドのシーツの下にある」カセットを盗むことによるテキストの消滅もある。

サルミエントの著作の音声化ではじまる本作は、その行為により、登場人物たちの閉じた空間を撹乱し拡大する。そして、終盤のエレナの朗読という反復による家系の延命、それとも散逸は、世界に自明な嘘など存在しない、ただ反復があるにすぎないということであり、これは命題「みんな嘘つき」のパラドックスである。世界をフレームの内でも外でもないクラインの壺の様相へと化すとも言える。そこには矛盾という概念はあるのか、つまり、世界に整合性を求めることの無意味さの露呈、『みんな嘘つき』は世界そのものの喩えであると言えるのではないのか。ピニェイロ監督は、そのことのために、映画に巧妙な操作を忍ばせる。感覚、言葉、音声、身体の振る舞いを構成し、語りをあらゆる方向に開けるのである。そこに着地点はない。物語の瓦解が現れる。

ここで、もう一つのことにも注目すべきである。それは俳優たちのこと。長編第1作『盗まれた男』で初めて出会い、その後のピニェイロ監督作品に出演することになる俳優たち(マリア・ビジャール、ロミーナ・パウラ、フリア・マルティネス・ルビオ)に加え、2人の俳優(フリアン・ラルキエール・テラリーニ、フリアン・テロ)が登場する。これら俳優たちは、気心知れないピニェイロ・ファミリーとなる。

オフの声としての会話につても考察しなければならない。


マティアス・ピニェイロ『ロサリンダ』(原題)Rosalinda(2010)

シェークスピア翻案シリーズ第1弾である。「お気に召すまま」からの翻案。

『みんな嘘つき』でピニェイロ・ファミリーについて書いたのだが、『ロザリンダ』で、ピニェイロお気に入りの俳優がひとり加わる。アグスティーナ・ムニョスである。シェークスピア翻案シリーズ第1弾での登場は、特別な意味を有しているかのようで神秘的である、と記しておこう。

「お気に召すまま」のリハーサルのために、ティグレ(ブエノスアイレスの北部に位置する。スペイン語でTigre虎)の島を訪れた若い俳優たち。
ティレグという豊かな陽光と自然に恵まれた環境のなか、俳優たちはリハーサルを進めるうちに、戯曲の役柄としての台詞が俳優の生としての台詞へと折りたたまれ、役柄と俳優自身の二者の境を次第に曖昧にする。これが、本作からはじまるシェークスピア翻案シリーズの面白さのひとつである。演目(台詞)と現実の交錯といえばジャック・リヴェット『血に堕ちた愛』(1983)を想起するのも可能だろう。だが、リヴェット作品では屋敷の“上層 / 下層”という空間、もしくは同層であっても異なる部屋との縦横無尽な異相間の移動という、異相間の境界を前提としているのに対し、ピニェイロ作品では同室での、または屋外での“左/右”の移動としてあり、境界があらかじめ措定されているのではないなかでリアルと虚構が曖昧になることに注目すべきである。

水面が写り、次に女の顔のアップの長回し。女は携帯を耳にあて、「いや」「何?」「ええ」「いいえ」「大丈夫」「じゃあ」。女は泣いている。映画を見るに過ぎない私は女の心情を理解できない。いや、観客による女へのアクセスを、ピニェイロは禁じているようでもある。アクセス不可の映画と称してみたくなる。その間、ボートを漕ぐ櫂と水のオフの音。しかもボートを漕ぐのは別の女だ。まるで、なにもなかったかのように。
自室で着替えるふたりの女。ふたりは「お気に召すまま」の台詞の練習をしている。木に貼られた一枚の用紙。ロサリンダへの悲歌が書かれているようだ。ロサリンダが用紙を取ると、「時の流れは人それぞれ」と書かれている。
水浴びをするヘルマン。続いてロサリンダたちふたりも水浴びをする姿が。
「お気に召すまま」のリハーサル。台詞に詰まるコリン。彼女はテキストを見ようとするが、演出家に拒まれる。
カードゲーム。殺し屋は眼を開けて、誰を殺す?警官は眼を開けて…。みんな眼を開けて。ピチョンが殺された。ルイサが死んだ。これは、殺されるのは誰?殺人者は誰?を当てるカードゲームだ。
俳優は「お気に召すまま」の役柄と自身の二役を演じる。それも舞台ではなく、彼らのベッドルームや陽光降り注ぐ自然のなかで。俳優たちは、役柄としての他者と俳優としての自己の境界が曖昧であるというきわどさを纏わされている。それだけではない。俳優としての自己ですら映画内の自己(=俳優という役割)であり、それら総体としての曖昧さを支えるのは、撮影監督フェルナンド・ロケットのカメラワークである。これは素晴らしく、耽美眼とでもいうべきカメラワークだ。俳優のフレームインとフレームアウト、それに伴う劇中の声がオフ・ヴォイスへと変位し、カメラの横移動、それも心の襞を捉えるかのような単純ではない、うっかりすると見過ごしてしまいそうな微妙な左右の揺れを伴う移動が、境界の曖昧さをより重層化している。そこに、俳優としての個の存在は複層であるとの呈示を見出したようにも思う。つまり、個は単数ではないということ。映画を見る俳優ではない私ですら、単一ではなく、複層として映画内に存在しているかのようで、地上からわずかに浮遊していた。

カードゲーム自体も役柄当てであり、フレーム内で人々は交差する。映画を見る私には、誰がどの役なのかも曖昧になる。つまり、登場する名前自体が交錯するのだ。ヘルマン、フェルマンダ、カナリ、ルイサ、ラウラの名とそれぞれの役柄の記憶を、映画は映画を見る私に要請している。

映画終盤、連続するキスシーンに私の気持ちは溺れた。それはキスが性的欲望の現れであるからではない。キスは二者の契約であり、二者の変容を促す。それは関係の濃度の増大にとどまらず、破壊、解消をも導く。本作を「キスの諸相」の映画と称しても、あながち間違いではないだろう。

マティアス・ピニェイロは、映画におけるキスの重要性を指摘する。キスというテーマから物語が透けて見えてくるのだ。キスは二者の契約(契約を愛と言い換えることができる)であり、キスの方法や雰囲気(ぎこちなさも含めて)により二者の関係性が現れる。二者の間に第三の人物が現れることでキスが予期せぬ方向へ移行する。つまり、別の人とキスをすることであらかじめあった二者の契約(=愛)が破棄され、関係性の脆弱性が顕になる。二者の契約(=愛)を見るにはセックスもあるが、セックスの直接的な映像化には問題が発生する。問題の発生を回避するためにごまかしの描写となるが、それは観客を欺くことでもある。だが、キスは映像的にもごまかすことなく描くことができる。実際の恋人同士のキスの映像には、二人の関係の実相が浮かび上がることもある。

マティアス・ピニェイロは作品ごとに語りの方法を模索する監督である。前作品にはない新しいオルタナティブな方法を求めるのがマティアス・ピニェイロである。

たとえば、のちに述べる『フランスの王女』(2014)。そのには、『ロザリンダ』にはないリズムがある。それはカット割とか編集というテクニカルなリズムではなく、たとえばキスにはない愛の循環のリズム。そして、夢、嘘、記憶、思考、願いの描き方とか。

彼の作品に物語を追うだけの鑑賞法は不毛である。映画が終わることで物語は消滅するのであり、そこで終わるのではなく、作品にアクティブに関わることを要請するのがマティアス・ピニェイロ作品なのである。彼の作品は物語という生産性を追う作品ではない。光、環境、音声、身体、台詞、フレームといった映画的要素総体を、まるでゲームであるかのような振る舞いでフィクションのなかに挿入する、ある意味、反・物語、反・経済性としてのアマチュア的秀逸性の作品としてあるのではないか。それは、ピニェイロが敬愛するシャンタル・アケルマンの手法に通じるだろう。

ピニェイロ監督はこう述べる。学生時代は企画が選ばれなかった。自分が優れているとは思わないが、選ばれた作品が優れているとも思わなかった。私の企画はいわゆる学生映画だったが、現在でもそれは変わらない。好きなものを映画に取り入れるが、好きでないものも意識的に撮ることもある。好きでないとは、自分の限界の現れであり、あえて取り入れることで自己の拡大をもたらすこともあるという。さらに、映画のテーマ以前に俳優を考えるとも。『エルミア&エレナ』では、マリア・ビジャールがオランダで英語の勉強をしていて、彼女の現実を作品に取り入れた。『フランスの王女』では、ハンサムというわけではなく、なにかを感じさせてくれる男性に出演してもらった。新しい俳優とも仕事がしたいから登場人物はしだいに増える。彼らをフレームのなかに登場させ、さまざまな振る舞いを求め試行する。たとえば見つめ合うカップルをどのように撮るとか。ピニェイロ作品に登場人物が多く、複雑に交差するのはそのためなのだろう。そのにあるのはクリッシェの排除の必要性である。


マティアス・ピニェイロ『ビオラ』(原題)Viola(2012)

シェークスピア翻案シリーズ第2弾「十二夜」

映画はブエノスアイレスの街路、車の行き交うなかを自転車に乗った女のロングショットで始まる。淡い青系のコートに身をつつみ背中にはリュック。後にわかるのだが、この女の名はビオラ。
本作で驚くのは、クローズアップによる唐突な切断である。冒頭の自転車に乗った女のロングショットという物語の持続は、文脈を無視したかのような顔や後ろ姿のクローズアップで途切れる。肩にショールをし、電話中の女の顔のクロースアップ。「まず言いたいのは、私はあなたがしたことが本当に私を愛していることだと感じたことはないということ。次に、否定しないでほしいんだけど、あなたは私を盗んだ。最後に、私は他の人が好きになったの、そう、端的に言うとね。自分の声に耳を傾けるよ。声に出して言ってみて、「サブリナは私を愛していない」と。さあ、言って見て。もう一度、もう一度、まだよ、繰り返して、そうよ、もう一度言ってみて」。女の名はサブリナのようだ。男に何度も「サブリナは私を愛していない」と言わせている。

つづいて、シェークスピア「十二夜」の台詞なのだろうか、会話をする女たちの極端なクローズアップ。会話に感情はあるのか。映画を見る私は混乱する。一歩下がって女たちの全体像を把握したいのだが、それは許されないままだ。これは会話という小さな物語なのか、それとも会話からフレームを外れる大きな物語となるのか。それとも、物語という概念すら無効とする物語ることの無意味なのか。私は彼女たちの顔の前に身を投げ出している。ショットが孤立しているのか、それとも私がショットから孤立していると宣告されているのか。閉塞感を感じるのだが、なにかが起こりうる予感もある。

女がベールをかぶるとそこは舞台。ほぼ女優の顔のクローズアップ。クローズアップのなかで女優たちがフォーカスを微妙に変位しながら交差する。そして、観客。演劇のシークエンスのなかに観客のショット。そのなかのひとりにビオラの同棲相手(ハビエル、ビジネスパートナーでもある)がいる。彼が同棲相手とわかるのは終盤である。

楽屋:観客、男の話。観客である元彼に向け「もう十分」と台詞。会話の声はフレームの外、オフ・ヴォイスである。ピニェイロで多用されるオフ・ヴォイス。フレーム内は会話を聞く女のクローズアップ。電話が会話を遮断する。
終盤のオフ・ヴォイスも、物語を補強するのか瓦解させようとするのか不思議である。「そして二度目のキスをしたあと、ルースに手紙を書いた。夢を見たこと、したこと、そのとき信じていたこと、すべてがうまくいったことを伝えたかった。劇場に行って、セシリアに彼を紹介し、二人が頻繁に会うようになり、すべてが変わるまで、彼が歌っているその瞬間、私は本当に彼を愛していると思った」
セシリアは四ヶ月後に舞台をやめるから、もしその気があるなら、代わりに舞台に立たないかとビオラに勧める。
セシリアはビオラに提案する「恋人とキスをしない。いつもの定式化した習慣をやめると新しい関係が始まる」と。キスというゲームの提案。

ピニェイロ作品の音楽は魅力的なのだが、音楽の使い方だけ他の作品と違う。ビオラが仕事から戻ると、そこにはビジネスパートナーで同棲相手であるハビエルと演劇に取り組む舞台仲間がいる。そこで突然、即興による劇伴の演奏が始まる。音楽に合わせハビエルは歌う。「ビオラに誘われて彼女の家に。母親から婚約するように、それから父親が来た。…」ハビエルはビオラを誘う「ビオラ、続けて!」…音楽を背景に、タイトルロールとなる。このシーンを見るだけでも、なんだか幸せな気分になる。音楽は永遠に続くような気もした。エンドロールでありながら、私のとても好きなシーンである。

(クローズアップについて)
ピニェイロはクローズアップについて、雑誌Nobody(web版)で興味深い発言をしている。彼によると、クローズアップにより映されない世界が出現する。それはフレームの外ということなのだが、フレームの外にはより大きな世界があるという。そして、なんらかの形でイメージの中に入ってくる。それは音を通してということなのかもしれない。音を通して映像の外で、映像の一端として見せることもできる。フレーム内ですべてを見せる必要はない。そのことにより、フレーム外にある、より大きな世界を意識できるというのである。
なるほど、そういうことなのか。クローズアップの役割はフレームの “内 / 外” という対立、もしくはフレーム内に従属するフレーム外というのではなく、内(IN)と外(OUT)の併置、“ IN and OUT ”なのである。そのことにより、フレーム内とフレーム外の中間項が発生するのである。ここに、命題「事物が生きはじめるのは、いつも中間においてである」(ジル・ドゥルーズ)を見ることもできる。これについては、後に述べる『エルミア&エレナ』を参照していただければと思う。

(『ビオラ』)


『フランスの王女』(原題)La princesa de Francia(2014)

シェークスピア翻案シリーズ第3弾「恋の骨折り損」

シューマンの交響曲一番の制作過程、構成についてのイタリア語によるオフ・ヴォイス(このオフ・ヴォイスにはスペイン語字幕がつけられている。これは単なる字幕ではなく、ピニェイロ作品におけるテキストの視覚化と捉える必要がる)があり、交響曲が物語の序曲かのように鳴り響く。交響曲は「ロレアル」に捧げられているとのナレーション。そして夜のビルの屋上から下方を覗き見ているオレンジのビブス(ベスト型ゼッケン)をつけたひとりの女をカメラは捉える。ロレナ(ロレアルのスペイン語)の名が呼ばれ、左下方にゆるやかに回転するかのようにカメラがパンすると、そこはビルの谷間のサッカー練習場。グリーンとオレンジのビブスをつけた集団がパスの練習をしている。フレーム上方の出入口からオレンジのビブスをつけたひとりの女が入ると練習は突如として試合に変わるのだが、オレンジのビブスの選手はひとりずつフレーム外に消え、オレンジのビブスをつけたゴールキーパーひとりになる。そしてグリーンのビブスをつけた選手はフレーム下方に一列に並ぶ。オレンジのビブスをつけたゴールキーパーはフレーム上方の出入口から逃げるように道路に飛び出す。グリーンのビブスの選手たちはゴールキーパーを追いかける。カメラは上方にパンし、夜のブエノスアイレスを捉え、タイトル「LA PRINCESA DE FRANCIAL」が呈示される。
これが冒頭の長回しのシークエンスであり、6分を超える長回しである。ここに見るのは、一つの視点で映し出されるものと語ろうとするものとのズレ、予測不可能性である。シューマンの交響曲はこの後も続く。
これに続くシーンは劇場の練習風景。カメラはオレンジのビブスを脱ぎながら練習室に入る女を捉えるのだが、そこでようやく、オレンジのビブスの女が冒頭の屋上の女、ロレナであることがわかる。ここに、物語が突然動き始めるかもしれないという予兆がある。

冒頭のシークエンスをいくぶん詳しく記したのは、ピニェイロ特有の運動が見られるからである。音楽家シューマンについての叙述、女の登場とフレームアウト、そしてフレームインとフレームアウト。これらがワンシーン・ワンカットの長回しで捉えられ、それに続いての女の物語への侵入。これはピニェイロが一貫して描いているフレームの “内 / 外” の相互運動である。長回しに起因するともいえるのだが、話者が移動したとしてもカメラは深くは追わない。声はフレームを外れ、フレームには話者とは関係なく、カップルがキスをしていたりもする。ピニェイロは、声も含めた“内 / 外” の相互運動で物語を構築する稀有な作家なのだ。言うまでもないが、ピニェイロにとり、物語とは単一に流れる時間ではなく、複層性を纏う時間である。
それにしても、ピニェイロはキスのショットが好きだ。キス、つまり二者が契約(『ロザリンダ』を参照)をしたからといって、契約不履行となるかもしれないのに…。

フレームの“内 / 外” への運動は、このような視覚による“イン / アウト”ばかりではない。シェークスピアの台詞の物語への“侵入 / 脱出”としての“内 / 外” でもあり、それが物語を重層化する。この場合の重層化とは、レイヤーのような層をなすのではなく、シャークスピアの物語が実の物語へ介入することで、ある種のサスペンスを生みだす。サスペンスとは位相、つまり、変化しても変わらない不気味さのことである。たとえば、台詞の反復、対話者が変わることによる反復と時間の停滞。

(文字テキストについて)
建物の壁に「CLUB TELEFONOS」。CLUB はいわゆるクラブや同好会なのだが、「劇場・映画館」の1階の前の方の列の意味もある。TELEFONOは電話という意味だが、TELE(距離)が重要ではないのか。私の語学知識ではこれ以上のことは分からないが、「CLUB TELEFONOS」を「距離」に満ちた「映画」と解釈したい欲望に駆られる。たとえば、アナからビクトル宛の出されなかったポストカード。出さないことで二者の距離が生まれる。 また、「CLUB TELEFONOS」には文字の呈示によるテキストの視覚化であり、ピニェイロ作品の特質であるともいえる。たとえば、家庭教師の張り紙「Matemática(数学)Física(物理学)Química(化学)」、本への書き込みAMOR(愛)の文字を見ることができる。『ロサリンダ』で述べたことだが、ピニェイロ作品を物語の受容だけで終わらせようとするのは不毛である。


マティアス・ピニェイロ『エルミア&エレナ』(原題)Hermia & Herena(2016)

シェークスピア翻案シリーズ第4弾「夏の夜の夢」

ピニェイロが映画製作の本拠地としていたブエノスアイレスを抜け出し、ニューヨークで撮影した作品である。
「夏の夜の夢」のスペイン語翻訳のために、若いブエノスアイレスの演出家がニューヨークへ赴くのだが、待ち受けていたのは過去と向き合う予期せぬことだった。友情と愛、過去と現在、冬と夏、ブエノスアイレスとニューヨーク。

映画冒頭、「原節子に捧ぐ」とあった。小津安二郎作品を通し世界的に知られる原節子。原節子が亡くなったのは2015年。『エルミア&エレナ』の発表は2016年だが、本作の編集当時、ピニェイロは原節子死去のニュースに接したという。

花々のショット。花のポストカード(日本のポストカードのようだ)にライターで火をつける。ここでも出さないポストカードによる二者の距離(『フランスの王女』)が出現する。ラテン・パーカションによる斬新な音楽。

ビルの谷間のドライブと橋のドライブ。

ブルーのシャツ、グレーのズボン、茶のカバンの男(ルーカス)を俯瞰する。彼の耳には携帯。女と会話している。会話の女は男を屋上から見ている。つまり、俯瞰とは女からの俯瞰である。
交換。恋人、父との再会と和解。母の死。一対一の交換の質問。
ピニェイロ作品で、ポストカードは本質的に不在を表すアイテムだ。
本のページを切りとりテープでノートに貼る。これはテキストの視覚化と手の痕跡の呈示である。
映画終盤:扉の鍵を開ける、閉める、鍵をかける、の反復が示される。これは、人が “入る/出る” という行為ではなく、反復による凝縮された時間の呈示である。夜の橋のドライブ、反復。そして映画の終了を告げるendマーク。

本作で興味深いのは、俳優がシェークスピアの戯曲の台詞を“喋る/喋らない”ということである。前三作品は俳優が戯曲の台詞を喋べり、シェークスピア翻案シリーズ第4弾である本作では喋らない。監督によると、シェークスピア翻案シリーズにバリエーションを持たせるためだという。
本作はテキストの変換をテーマとしている。つまり、ブエノスアイレスとニューヨーク。そこにはスペイン語と英語があり、翻訳行為が必要となる。シェークスピアの戯曲の台詞は必ずしも必要なのではない。俳優が台詞を喋るとはある種の変換を意味し、戯曲の台詞が必要とするわけではない。二つの言語の変換、つまり字幕を多用していることによる変換に私は興味を覚えた。夥しい字幕そのものがテキストであり、テキストの視覚化である。翻訳行為そのものがテーマとしてあるのだ。ここで重要なのは、二言語の配置である。「スペイン語→英語」「英語→スペイン語」という単一の変換ではなく、二言語を併置すること。つまり、「A→B」ではなく「A and B」という併置。併置することでAでもBでもない中間項が発生するということだ。ジル・ドゥルーズはこう述べる「事物が生きはじめるのは、いつも中間においてである」と。そうすることで、テキストは物語のなかで強さを持つことになる。二つの言語(スペイン語、英語)と街の情景のなかに物語が立ち現れるのだ。ピニェイロはそう考えたに違いない。

『ビオラ』は劇場と声の映画であり、『フランスの王女』は演劇の台詞の影に気配の細部を映し出している。たとえばカップルのキス。演劇の台詞はカップルのキスの背後にある。

ピニェイロ作品には反復が多用されている。監督は反復が好きだという。繰り返しは矛盾でもあり、同じAにはならない。反復は元に戻ることでもあり、記憶を編む行為でもある。語る手法の一つで、時間とも関連する。そういえば、本作の日本語字幕はテキストの反復であり、同じAではなく、A’となる。

反復で思い出すのがリヴェット『アウト・ワン』の鏡に写すことによる反復である。リヴェトもピニェイロも同質の変換のように見えるのだが、リヴェットの鏡の変換「A→A’」は時間の同時性だが、ピニェイロの反復作用「A→A’」は時間の経過、あるいは遡行であり記憶である。

字幕はテキストの視覚化。なるほど、と思った。『エルミア&エレナ』で本のページを切りとり、テープでノートや壁に貼りつけるショットがある。これはブレッソンを思わせる手の痕跡であると同時にテキストの視覚化でもある。だが、切りとったページを貼りつけることによる視覚化で、用紙のどちらかの面が眼から遮断される。この眼の遮断は視覚化における矛盾とも言える。だが、これは矛盾であると同時に、遮断による覆い隠された背面から物語を立ち現わせようとするピニェイロの作劇術なのである。だから彼の作品は魅力的な不可解さが溢れ出る映画なのであるでも。

(最後に、上記では触れなかったメモを、一部繰り返しになるが記しておこう)
ポストカードは不在の徴である。日本画のポストカードは原節子の不在、ライターで火をつけるは不在から消滅への時間移動。ショット(カット)という時間の中断は世界の解析行為である。
4人の男:ニューヨークのルーカス、映画製作している元彼(アーノルドファンクArnold Fanck『白銀の乱舞Der weisse Rausch』)、ブエノスアイレスのレオ、別れた父。
ブルックリン橋→移動の反復と時間の流れ。
扉の開閉の反復→カミーラの過去の凝縮された時間

(補足)

ラウル・ルイス『ミステリーズ、運命のリスボン』(2012)は孤児ジョアンを取り巻く複数者の告白が他者の物語への介入と修正を要請し、エッサイの樹形図のように縦に時間軸、横に人間軸を必要とするダイナミックな構造を成していたが、シェークスピアのマティアス・ピニェイロ作品への侵犯はより複雑なミステリーを形成する。

『エルミア&ヘレン』におけるポストカードは不在の徴なのだが、冒頭の日本画のポストカードは距離における原節子の不在であり、ビジャールのライターによるポストカードの焼失は原節子の死という不在であり、それに続くビジャールの電話のショットと帰国後のトラックを運転するビジャール。これは『わが青春に悔なし』の終盤における原節子の社会に向けた二重性なのではないか。そう考えると、『フランスの王女』の「CLUB TELEFONOS」のショットの必要性が理解できるのではないだろうか。

『フランスの王女』の冒頭、サッカーのシーンがあるが、オレンジのビブスをつけた選手が5人から最後には1人になる。5から1になるという『フランスの王女』のゲームの謎。こんなところにもピニェイロのサスペンス性が見える。

『フランスの王女』のシメの口上の背後の赤ちゃんの泣き声。これは登場人物の赤ん坊ということなのだが、ゴダール『さらば、愛の言葉よ』を思い出す。どちらも製作は2014年。

ピニェイロ作品は時間の表現に打ちのめされる。とりわけ反復による時間表現の巧みさなのだが、『エルミア&エレナ』でしばしば呈示されるブルックリン橋(多分そうだと思う)とラストの扉の開閉の反復。これはカミーラが過去と向き合う時間の凝縮でもあるわけで、ジーンとくるものがある。

ホセ・ルイス・ゲリンは窓辺に人物を配置させるが、ピニェイロはフレームの〝内/外〟へと移動させる。イメージの根源への眼差し…。

ゲリンとピニェイロの作品に共感できることのひとつに、文字もイメージであるという認識があること。

『エルミア&エレナ』で、テキストのページの切り抜きが、壁一面にランダムに貼られたショットがあるのだが、ここでは眼の運動が要請され、ある種のチャンス・オペレーション(偶然性)である。眼の運動がテキストの再編と、それによる物語の生成、登場人物の予期せぬ交錯をつくりだすことになる。ピニェイロ作品がサスペンスとしても秀逸なのは、緻密に組み立てられた偶然性、とでもいうべき背理にひそむ整合性ではないだろうか。

シャークスピア劇を演じる自己と映画内の自己。ここには二重の自己が存在する。シェークスピアを演じる自己がドキュメンタリーであり、映画内の自己がフィクションということもできる。

ピニェイロ作品における移動・乗り物。トラック(『エルミア&エレナ』)、乗用車(『エルミア&エレナ』『みんな嘘つき』)、航空機(『エルミア&エレナ』)、小舟(『ロサリンダ』)、自転車(『ビオラ』『フランスの王女』)。車内と変化する車外の情景。ブエノスアイレス→ニューヨーク。車内という日常→かつてあった軍事政権という車外。

『エルミア&エレナ』


『盗まれた男 El Hombre Robado』(2007)

作家でありアルゼンチンの大統領も務めたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントの著作『ファクンド−文明と野蛮』などに着想を得た作品である。ブエノスアイレスを舞台に、モノクロ16ミリで撮った愛と不実をめぐる物語である。
出演は、ピニェイロ作品常連となるマリア・ビジャール、フリア・マルティネス・ルビオ、ロミーナ・パウラ。撮影監督はピニェイロ作品を支えることになるフェルナンド・ロケット。彼なくしてピニェイロ作品はあり得ないともいえる撮影監督である。
フランスのwebによると、舞台のほとんどが、美術館に隣接する公園で繰り広げられるとある。博物館のガイドとして働くメルセデスは、親友の婚約者の浮気を疑い、ある策略をめぐらす。ここには自然主義に対する拒絶が台詞に表れているという。不条理に近い簡潔な文体を駆使することで心理学への抵抗を潜ませ、映画を見る者を登場人物の内面の理解から遠ざける。物語の構造、キャラクター概念、人物への共感、さまざまな事象への抗いを監督は見せる。

《映画日記11》三隅研次、ガレル作品、ほか
に続く

(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)

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