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《映画日記9》 瀬々敬久、ホン・サンス作品、ほか

(見出し画像:ホン・サンス『それから』)

本エッセイは
《映画日記8》キーレン・パン作品、 枝優花作品、ほか
の続編です。

ライン(LINE)について考えることがある。連絡や近況報告で利用しているライン(LINE)ではなく、純粋な線としてのライン。それは、ティム・インゴルド『LINES ラインズ 線の文化史』(左右社刊)に興味を覚えたからだ。
わたしたちは夥しいラインを日常的に目にしている。ラインはラインそのものとしてあるのではない。ラインとラインが描かれた表面との関係を考察する必要がある。インゴルドは記述(writing)からラインズという概念に接近したのだが、彼によると、世界には二種類のラインがあるという。彼はそれを糸(thread)と軌跡(trace)と呼ぶ。糸と軌跡(ここには行為がある)は異なるカテゴリーのもののように見えるのだが、実は、相互に変形しあうものであるとインゴルドは述べる。糸が軌跡に変化するときにはいつも表面が形成され、軌跡が糸に変化するときにはいつも表面が消失する…なんだか難しいなぁ…。彼はその変形を追求するうちに、ラインズの探求の出発点にあった記述そのものから様々な迂回の果てに、ふたたび書かれたテクストへと連れ戻されたという。実はわたしが綴る『映画日記』なるテクストも、なんらかのライン、それは点の連続体としての単純なラインにとどまらず、表面を網目状に広がる糸と軌跡のダイナミックな往還運動としてあるのではないかと思っている。それを極めるのはわたしには能力的に無理であることしても、往還運動の痕跡がわずかでも、その痕跡が擦り傷のようなモノ(thing)であっとしても、そこには思考…思考の痕跡をモノと言ってもいい…の往来が発生するのではないかと思う。往来には複数の場所が必要である。その作業の過程で、往来の通過点、もしくはとどまる地点としての場所を見出すことができれば、と夢想する。そうすれば、自己内対話にすぎない『映画日記』も、網目状の糸と軌跡に満たされた表面となるのではないかと思うのだ。
あらゆるモノはラインが集まったものであり、もともとモノ(thing)は、「人々の集い、人々が問題を解決するために集う場所」(ティム・インゴルド)を意味するというから、そこには必然として移動がある。そこでは、往還運動「モノ⇄モノ」という反復を通し、モノは変容するだろう。きっとそうである、と思う。

このエッセイはわたしがつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 


瀬々敬久『菊とギロチン』(2018)

この映画を見ずに平成は終われない……わたしの中では昭和も終わっていないけれど。

タイトル『菊とギロチン』は女相撲のヒロイン花菊とアナーキスト集団ギロチン社からということなのだろうが、ルース・ベネディクトによる日本人文化論『菊と刀』への眼差しもあるだろう。

女相撲の記録上の初出は『日本書紀』の(469年頃)の記事にあるから、政府による弾圧で1956年(昭和31年)の浅草公演で幕を閉じるまで1500年近い歴史があったということになる。本作で描かれる「興業」としての女相撲は江戸時代以降だから、それでも約250年の歴史を持つ。男相撲も日本古来の神事や祭としてあり、「興業」としての男相撲は女相撲と同じく江戸時代に入ってからのようだ。ところが男相撲が「興業」ですら「国技」とされたのに対し、女相撲は「エロ・グロ・ナンセンス」「変態」風俗との関連で捉えられるようになったという。政府による女相撲の弾圧はそのことに起因するのだろう。つまり、男相撲=神事、女相撲=猥褻風俗という両者の非対称性である。とりわけ明治以降の日本は国家としてのマスキュリズム(男性主義)であり、相撲に限らず、女が社会を揺るがす(または活動する)状況に国家意識としての忌避感が露出することになる。21世紀になった現在でも女性は社会の下位構造にとどまり、日本における女性のジェンダー・ギャップ指数は世界の中で最低レベルなのだから、男相撲が神格化されたのに対し、女相撲が俗世界として弾圧されたのは想像に難くない。

アナーキストとしてのギロチン社(=分黒党)が活動を展開したのは主に大正末期、とりわけ1923年から24年にかけてである。関東大震災(1923、大正12年)での、国家に煽動された民衆による朝鮮人虐殺で見るように、大正デモクラシーとは裏腹に、社会は混沌とし、情勢は急速に不寛容へと向かった。異端を許さない(時には虐殺を伴う)ファシズム国家を民衆が支える構造が形成されるのである。そのような社会情勢の中、反ファシズムとしてのギロチン社が出現する。ギロチン社とは社会をクビになった者たちの集まりという意味であり、既成の民衆運動に疑問を抱き、国家主義に抗うべく、一気にテロリズムへと接近することになる。つまり、個=反権力の視点に立つアナーキズムへの接近である。その結果、国家は彼らを検挙し弾圧したのである。

女相撲とギロチン社が歴史の上で接点があったか否かはそれほど大きな問題ではない。社会を惑わすという意味で、国家にとり、両者はアナーキーな存在であった。だからこそ、国家にとってはあってはならない存在とされた。両者を同時に描いたのが、本作『菊とギロチン』である。

瀬々敬久は一見異質であるかのように見えるものを結びつける才能に秀でている監督である。『破廉恥舌戯テクニック』(1990)では、ベルリンオリンピック(1936)で金を獲得しポールに掲げられた日の丸と「君が代」に屈辱の涙を浮かべた日本支配下の朝鮮人・孫基禎(ソン・ギジョン)や社会党の浅沼委員長を刺殺した山口二矢おとや(1943〜1960)を作品内に登場させたし、『未亡人 喪服の悶え』(1993)では秩父困民党(注1)を滑り込ませるという秀逸テクニックを見せている。瀬々敬久の手にかかればどんなものでもひとつになる。世界に無関係なものなど存在しないかのように…世界に向ける寺山修司の眼差しを思い出す。
(注1)自由民権運動の影響下に発生した秩父事件で知られる。明治17年(1884)10月31日から11月9日にかけ、埼玉県秩父郡の農民と士族が政府に対して負債の延納、雑税の減少を求めて起こした武装蜂起事件。

(瀬々敬久『菊とギロチン』)


チョ・ソンヒョン『ワンダーランド北朝鮮』(2016)

作品のウェブサイトで、韓国のチョ・ソンヒョン監督が北朝鮮で映画製作を行った経緯を知ることができる。
北朝鮮のイメージは、独裁国家、核開発、貧困、飢餓、世界から隔絶された国。どれもが負のイメージである。北朝鮮は本当にこのような危うい国なのか。たとえ危うい国だとしても、そこには市民がおり、日々流れる時間がある。国家レベルでのみ捉えるのではなく、北朝鮮の人々の日々に眼差しを向けることで、遠くからでは分からない何かが見えてくるかも知れない。チョ・ソンヒョンは、この問いの答えを探すため、北朝鮮で映画製作を行う決意をした。韓国籍では北朝鮮に入国できない。彼女は韓国籍を放棄し、ドイツのパスポートで北朝鮮に入国した。そして、エンジニア、工場労働者、兵士、農民、画家など “市井の人々” にカメラを向けた。
本作を鑑賞する上で興味を抱いたのは “写す/写さない” ということ。つまり、撮影クルーには絶えず北朝鮮政府の監視の眼があっただろうけれど、その眼も含めて被写体を“写す/写さない”の選択(もしくは制限・検閲)が隠れたドキュメンタリーとなり、そこから北朝鮮の諸相が立ち現れるかもしれない。そんな期待を抱きながら、映画を見ることにした。詳しくは下記サイトを。


インドゥジヒ・ポラーク『イカリエ_XB1』IKARIE_XB1チェコ(1963)

スタニスワム・レムの小説『マゼラン星雲』(1955)を原作とするチェコのSF映画である。
同時期のSFとしてクリス・マルケル『ラ・ジュテ』(1962)がある。『ラ・ジュテ』が核による世界の終末を描いたのに対し、『イカリエ_XB1』は穢れを知らない純粋培養された未来社会の密室におけるユートピアとデストピアを描いている。
本作を見て、監督インドゥジヒ・ポラーク(1925〜2003)よりもひと世代若い吉田喜重(1933〜2022)を思いうかべた…唐突かな…。彼がSFを撮ったら、『イカリエ_XB1』をデストピアのベクトルへと強度を増した作品にしたに違いないと思った。人の配置が吉田監督とは違うけれど、これは西欧と日本の美意識、配置の違いなのだろうか。

本作の脚本パヴェル・ユラーチェクは、チェコ・ヌーヴェルヴァーグの作品であるカレル・ゼマン『狂気のクロニクル』(1964)ヴィエラ・ヒチロヴァー『ひなぎく』(1966)にも参加している。音楽のズデニェク・リシュカは、ヤン・シュヴァンクマイエルの初期短編アニメーションに楽曲提供をしている。つまり、本作に結集したスタッフは、チェコ・ヌーヴェルヴァーグを代表する、同時期にキラ星のごとく出現した才能たちである。


ホン・サンス監督作品連続上映

ホン・サンスの作品が連続上映されている。ホン・サンスは、わたしが韓国でいちばん好きな監督である。日本で上映される最近の韓国映画は粘液質がフレームから湧出し、その過剰さが観賞後も脳内を巡り、自己処理ができないほどに脳内に居座ってしまいそうな作品が多い。そういった映画をわたしは嫌いではないのだが、続けて鑑賞するとトラウマに陥りそうになり、「もうたくさん!」という気持ちになる。
それと正反対なのがホン・サンス作品である。彼の作品も見方によっては粘液質、とも言えるのだが、その粘液質がこれら韓国作品とは質的に違う。単純化していえば、ホン・サンスの粘液質は、時間と距離に対してである。つまり、時間と距離への執拗な眼差しが、ホン・サンス作品の特質なのである。

図式化するならば、『それから』は結論を先延ばしすることで時間の遅延が反復を生成し、『夜の浜辺でひとり』は「なっている」「増えた」という時間の経過、そして「わからない」という時間の不在の戯れを生じさせ、『正しい日|間違えた日』は1日早く到着することで今日いう時間を明日へと遅延させる。プルーストは時間の深さであるという定説に倣えば、ホン・サンスは時間の“遠さ”という、プルーストとは位相をずらした世界にあるように思える。“遠さ”という時間の仮構が秀逸なのである。もちろん距離についても。距離は、仮構された“近さ”として表現されている。

ホン・サンス作品の最近の傾向にズーミングの多用がある。これはカメラの長回しとも関係するのだが、ファスビンダー作品における、ある意味とてもダサいズーミングがメロドラマの歴史的通俗性の表象なんじゃないかなあと考えると、ズーミングは、そこに在るという俳優の身体の再現不可能性・一回性の表象としての多用なのだろうな、という気がする。

ホン・サンス作品についてはnoteに論考を3本書いているので、お読みいただければ嬉しく思います。ホン・サンスについては今後も書きたい。


細田守『未来のミライ』(2018)

アニメにおける声の役割。アニメは絵や動きがどんなに卓越していても、声に魅力がなければ単なる絵の技量を見るだけのつまらない作品となる。その意味で、『未来のミライ』はアニメの危うさ感じさせる作品である。
4歳の男の子くえ、くえの妹である赤ん坊、そして犬。映画前半はくえのわがままな叫び声、赤ん坊の泣き声、犬の吠える声の喧しさ、そして退屈なストーリーで辟易。こんなんではこの作品に付き合ってられない、と席を立とうとした頃、突如、青年期のひいじいさんが出現する。これまでと違い、抑えられた声質。その声には戦中という時代と青年期という時間が溶け込んでいて、それだけで物語の立ち上がりとこれから呈示されることになる4世代の過去、現在、未来の時代層の予兆となるように思えた。最後までこの声が気になったのだが、クレジットで役所広司と分かった。
役所広司が出演していなければ、アニメという卓越した意匠だけの薄っぺらい映画になっていたに違いない。彼は声だけで観客を映画の中心へと誘うことのできる役者なのだ。ただ、映画そのものの魅力はといえば、あまり感じなかった。


ミシェル・フランコ『母という名の女』(2017)

メキシコの避暑地を思わせる海岸の豪奢な住宅。肥満の若い女(おそらく20歳前後)が無言で調理をしている。台所にはこの女以外に誰もいないのだが、奥の部屋から男女の性愛の声が。台所の作業と性愛の声がしばらく続き、性愛が終わったのか部屋から若い男が現れ水を飲む。調理をしている若い女は無表情。しばらくして異様にお腹が膨らんだ全裸の少女が現れる。少女は17歳バレリア、肥満の女は少女の姉クララ、若い男は少女の恋人マテオである。少女は身籠っており、父はマテオのようだ。そしてはじめてのセックスで妊娠したことが会話から伺えるのだが、その真偽は定かではない。自由奔放な17歳の妹と男経験のない肥満の姉。このように書けば登場人物たちの立ち位置や関係性が明確なようにも思えるのだが、実はそうではない。前触れもなく、この姉妹の母親アブリルが現れ、娘たちないしは恋人の生活に介入し始める。母アブリルはどこからやって来たのか。航空機による長い旅路で疲れたと言っていることから、スペインから来たのではないかと推測できる。
母アブリルは17歳の娘バレリアの妊娠を知らないらしい。それは、バレリアが「妊娠したとこがお母さんにバレると大変なことになる」、と姉のクララに述べることから伺える。母親がメキシコに来た理由は何なのか。姉妹は何を生業に生活しているのか。そして、母親の職業と娘たちとの別居生活の理由は何なのか。映画内ではなんら説明なく、事態はつぎつぎに進展していく。いや、説明がないのではない。それはある。たとえば、母親の、禅のパフォーマンスをビデオに撮りネット配信・販売するなどといった、とても真顔では納得できない説明。事態は振り返るすべもなく、容赦なく単一の方向に進む。あたかも、映画は始まったら止まらない、スピード感のない映画なんてつまらないとでも言いたげである。

バレリアは子どもを出産し、しばらくは幸せな生活を送る。だが、どうしたことだろう。母親のアブリルは娘の恋人マテオを誘惑し、マテオの腰に跨り無理やり性交する。自らもマテオの子を宿そうとするのだ。それに飽き足らないのか、自分の娘バレリアの子も奪い、マテオとともに逃亡する。娘の目の届かない場所で、マテオと娘の子とアブリル、3人の新しい生活を送ろうとする。だが、娘のバレリアはその居所を突き止め、恋人マテオと子を奪い返し、逃亡を図る。バレリアはマテオにトイレに行くと言って子どもとともにその場から逃亡を企てる。マテオを待合室に残しバレリアはタクシーに飛び乗る。タクシーの後部座席に、バレリアと彼女の胸に抱かれた子ども。バレリアは静かに微笑む。

原題は『アブリルの娘たち』なのだが、邦題は『母という名の女』。母とはアブリルのことなのか、バレリアのことなのか、それとも、女の総体としての母のことなのか。うまいネーミングだと思う。おそらく、このネーミングをした日本の担当者は、ゴダール『カルメンという名の女』(1981)のタイトルイメージがあったのだろう。

(ミシェル・フランコ『母という名の女』、娘バレリア(左)、母アブリル(右))


木村文洋『息衝く(いきづく)』(2017)

本作を見ながら、1995年の夏、フランスでふと手にした《Le monde diplomatique》の見出しに、「壊れゆく日本」とあったのを思い出した。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件のことだ。そこに書かれてあったのは事件という表層ではなく、日本社会が抱える病理という深層だった。 本日、サリン事件に関与したオウム真理教信者の死刑執行があった。死刑執行という表層では問題は解決はしないし、何も見えない。死刑は本質を覆い隠そうとするだけだ。病理の解明なくして終わりも始まりもない。日本社会はいつもこの“浅さ”にとどまり、“深さ”へ向かおうとしない。これこそが、日本社会の病理、闇なのだ。『息衝く』を見た日の日本社会の病理。


ドイツ・アマゾンにアンゲラ・シャーネレクのDVD『Der traumhafte Weg(はかな(儚)き道)』を注文。


グレタ・ガーウィック『レディ・バード』(2017)

グレタ・ガーウィック。多くの評者が絶賛する監督なのだが、俳優としての魅力は感じるものの、監督としての才能があるとはわたしには思えない。その理由は下記サイトを。


ドイツ・アマゾンにトマス・アルスラン作品とアンゲラ・シャーネレク作品のDVD注文。

トマス・アルスラン『Geschwister(兄弟)』『Der schöne Tag(晴れた日)』『Ferien(休暇)』、アンゲラ・シャーネレク『Mein langsames Leben(私の緩やかな人生)』の4作品。


映画の聖地を訪ねる試み。ベルリン、マルセイユへ。

聖地巡礼というのがある。たとえば『君の名は。』なら岐阜県の「日枝神社」や東京の「須賀神社の階段」。『鬼滅の刃』なら栃木県の「あしかがフラワーパーク」。『SLAM DUNK』なら江ノ電の「鎌倉高校駅前の踏切」というふうに。

聖地巡礼はアニメやマンガに限らない。実写の映画でもある。たとえば『ローマの休日』の「スペイン広場の階段」。最近は聖地巡礼者のマナーが悪いとも批判されているけれど、わたしも機会があれば行ってみたい。もちろん、マナー違反はしないけれど。
というよりも、実際に行ったことがある。ホアン・シー『台北暮色』(2017)のロケ地だ。台北MRT奇岩駅の高架ホームから眺める下の通路。過去を引きずるひとり暮らしの女シュー、家を持たないフォン、人と混じり合えないリーの3人が出会いインコを探す寺院・古亭長慶宮。わたし以外に誰も訪れる者のない人気のない聖地だった。古亭長慶宮にいた男に『台北暮色』の写真を見せながら、「この寺院は、この映画のロケ地ですよね」と尋ねた。すると男は、「この人、何なんだ?」とわたしを見てポカンとした表情。古亭長慶宮は、わたしがかってに聖地と認定したにすぎない場所なの?

(ホアン・シー『台北暮色』、インコとシュー(リマ・ジタン))

わたしには是非とも行きたいヨーロッパの(わたし認定)聖地がある。ベルリン、ベルリン駅、そしてマルセイユだ。都市としてのベルリンはトマス・アルスランの諸作品の聖地であり、ベルリン駅とマルセイユはアンゲラ・シャーネレク作品の聖地である。とりわけベルリン駅とマルセイユのドイツ領事館をこの目で見たい。
ベルリン駅はシャーネレク『はかな(儚)き夢』の聖地。マルセイユのドイツ領事館はシャーネレク『マルセイユ』の聖地。ただ、『マルセイユ』を見てドイツ領事館に行きたいと思った人はまずいないだろう。黄色のワンピースを身に纏った女がマルセイユのとある建物の前を通り、そしてその建物に入って行くのだが、その建物が在仏ドイツ領事館である。女を捉える遠くからのショットが、わたしたちにはいかなる介入もできない彼女の孤独を表していた。黄色のワンピースとドイツ領事館、ラストの夕闇の海岸でのかすかに判別できるワンピースの黄色から、それが主人公ゾフィーであると分かる。なぜ黄色なのか。これはシャーネレク作品のキーとなる色だ。
詳細は《映画日記5》に。

聖地巡礼のためにベルリンからマルセイユまで鉄道移動したい。まずは、ベルリン・フランクフルト間の鉄道を予約しなければ。
日本のサイトMAXVISTA、RAILEUROPEで調べると2等でもチケットは高額。手が出ないなあ。列車や日付を変えてもほぼ同じ金額。割引チケットはなく、すべてノーマル運賃だ。念のため、ドイツ国鉄のサイト(ドイツ語、英語、フランス語)を調べてみた。チケットの変更“可/不可”、キャンセルの“可/不可”により様々な券種があった。券種だけでなく、運行の時間帯でも金額は異なる。トマスクック・ヨーロッパ時刻表(英国の出版社だが、日本の大きな書店で購入できる)の最新号を参考にしながら、午前発ベルリン・フランクフルト間の直通列車を調べた。チケットの変更・キャンセルとも不可の格安チケット(列車に乗り遅れた、事情で旅行が中止になった、いかなる理由も通用しない非情なチケット)があった。日本のサイトの1/3〜1/2の金額である。しかも1等、2等の金額の差は小さい。せっかくのヨーロッパ鉄道旅行なのだから、1等のチケットにしよう。ベルリン11:04発、フランクフルト14:44着。券種の選択項目が多く、日本語ではないので最後の入力までたどり着けるか不安だったが、なんとか完了。69.9€だった。フランクフルトからマルセイユまでの鉄道経路は現地に行ってから検討。色々なルートがあるけれど、途中下車と安ホテルの鉄旅である。ちなみに、わたしは鉄オタ。
という空想旅行をしている。餃子を食べながら、生ビール片手にトマスクック・ヨーロッパ時刻表を調べ、海外の鉄道サイトにアクセスをして運賃を調べる。予約を完了するとクレジットカードがPCに呑み込まれてしまうから、予約完了のクリックはせず、直前で寸止め。「餃子+生ビール+空想鉄旅」、三位一体は楽しい!
実際に旅行するのは稀。今回も空想止まりで悲しいけれど、国内の実践鉄旅で十分に楽しい。

《映画日記10》マチアス・ピニェイロ作品
に続く

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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