《映画日記5》 アンゲラ・シャーネレク、ストローブ=ユイレ作品、ほか
(見出し画像:アンゲラ・シャーネレク『はかな(儚)き夢』)
本エッセイは
《映画日記4》アンドレイ・タルコフスキー、クリスティアン・ペッツォルト作品、ほか
の続編です。
職業としての映画ライター。これは書き手である自己を離れた他者に向けて文を綴るという意味で、着地点を想定しなければならない。つまり、自己の文の他者による受容の想定である。映画ライターは論を進めると同時に、受容のための回路を構築しなければならない。そうでなければ、商品となる文ではなくなる。そのために、最初の他者である編集者の存在が重要になる。ライターは編集者と意見を交わしながら、編集者の向こう側にいる多くの受容者に向け論を進めるのだ。
ところが本エッセイである『映画日記』を書くことは、はひたすら自己の鏡面とでも言うべき壁に向けて言葉を発し、鏡面に映る言葉を再び自己に戻す……つまり鏡面反射……反復キャッチボールというとりとめのない遊戯に溺れる行為である。その意味で、『映画日記』は言葉の堆積した海のようなもので、水中に溺れるあまり自分でもなぜそのようなことを考えたのかが分からなくなることもある。しかし、それは日記という思考による時間の記録であり、たとえば海上に浮遊する、削除したくなるほどの溺死状態の裸形の言葉たちになったとしても、それはそのままに留めておいてもいいのではないかと思い、『映画日記』としてnote上に公開することにした。日記の公開は恥ずかしいが、映画日記という「映画」をクッションとした自己の吐露ならば、書く者の恥ずかしさも緩和されに違いない。
このエッセイはわたしがつけている『映画日記』からの抜粋です。
日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。
論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
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アンゲラ・シャーネレク『私の緩やかな人生』(2001)
シャーネレク作品における移動。それは車であり船であり列車であったりするのだが、映画終盤、不意に呈示される公園の移動撮影は特異である。フレームは登場人物を追尾するかと思えばフレームから外れ、さらに新たな人物たちがフレームに紛れ込む。カメラが映画を見るわたしの眼を侵食する瞬間である。
複雑に交錯する登場人物たち。1度見ただけでは彼らの関係性は必ずしも明白ではない。そして時間の省略技法。映画を見る眼に苦痛と快楽が宿る。
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アンゲラ・シャーネレク『はかな(儚)き道』(2016)
アンゲラ・シャーネレク監督作品の衣服。これは時間と空間を越境する身体の持続を補完するアイテムである。
本作における身体はブレッソン的であると同時に、能楽的でもある。その意味で、ブレッソンを高度に抽象化している。いや、ブレッソンではないかもしれない。他の作品で確認できるように、シャーネレク作品の身体は能楽的である。
作品内でアリアーネが手にする写真集David Hayes『in den Tropen(熱帯にて)』。リアリズムと位相を異にした風景写真は、シャーネレク監督の目でもあるように思える。これは『マルセーユ』におけるゾフィーが撮るポートレートの反復でもある。
映画解説に1984年の記述と30年後という時間経過が明示されているが、映画内ではそのような明示はない。ギリシャのEU加盟をめぐるアテネでのデモや、ギリシャのヘレニズム文化はEUの思想と符合しているという言説から、それは80年代であること判明する。だが、当時のギリシャ国内の経過の詳細を知らない者に、それが1984年であるという確証は何も呈示されない。そして、30年後という時間経過。これは、現在(作品が撮られた2010年代半ば)のベルリンが舞台として設定されていることからかろうじて判明する。シャーネレク作品において、時間経過は説明されるものではなく、観客の眼の力に委ねられているのである。そして、終盤のテレーズとケネスの再会。テレーズは赤いボーダーのポロシャツに白・黒のボーダーのスカート、そしてケネスは古いセーター。映画冒頭から、つまり30年前から同じ衣装なのだが、これは、衣服による時間と空間を越境する身体の持続とも読める。身を包む衣服が、身体をより一層鮮明にさせている。時間的な遠方と空間的な遠方、ベンヤミンを思い浮かべる。これはユスターシュ?
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アンゲラ・シャーネレク『マルセイユ』(2004)
本作はベルリン、マルセイユ、二つの都市とその距離の物語である。そして、二つの都市を往還するゾフィーの物語だ。
ベルリン=個の集積体としての都市でありながら孤独ということでもある。マルセイユ=個の集積体でありながらも救済へと向かわせる。
ゾフィーが写真として捉えるマルセイユのイメージ。それは目の前の忠実な光景ではない。人物を排除した、遠近法をも消滅させた平面としての都市のイメージである。
マルセイユ、サン・シャルル駅の階段を下るゾフィーを捉える背後からのショット。それは、直接的には映画では描かれなかった事件と、警察署で黄色いコスチュームを纏わせるための儀式のようでもあり、ラストの、浜辺を歩くゾフィー……黄色のワンピースでかろうじて判別可能……のショットへと繋がる。この時間の繋がりのさりげない意匠が素晴らしい。ゾフィーの、犯人への暗黙の了解は、そのためにあるかのではないのか。物語は色の知覚への儀式でもある。コスチュームによる色の知覚。ここにもシャーネレク作品の魅力がある。
『はかな(儚)き道』のクローズアップで捉えられる書物David Hayes『In den Tropen(熱帯にて)』。これはクロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯(Tristes Tropiques)』(中公クラシックス刊)を想起させる。言葉の連想としてそう思うのではない。『悲しき熱帯Tristes Tropiques』の一文「世界は人間なしで始まったし、人間なしで終わるだろう」を想起するからだ。世界のはじめと終わりに人間がいないとしても、その中間項である現在の人間には可能性がある。だが、可能性以前の宿命的に担わされた悲しさとしての人間、ということでもある。シャーネレク作品に登場する人間はすべからく孤独でなければならない。孤独とは人間の本性であるかのように。『In den Tropen熱帯にて』の呈示、その先に、シャーネレク監督の、『悲しき熱帯Tristes Tropiques』への視線を感じる。そしてクローズアップで示された書物内の数枚の自然を撮った写真イメージ。そのイメージは、ゾフィーが撮ったマルセイユの都市のイメージと通じるものがある。世界の立体としてのイメージではなく、遠近法を欠いた平面としてのイメージ。
『マルセイユ』における2つの都市「ベルリン」と「マルセイユ」の距離。『はかな(儚)き道』での1980年代と2010年代という時間の距離。シャーネレク監督作品は、この2作に限らず、どの作品をとっても距離の描き方が魅力的で印象深い。それは遠・近というのではなく、同値という距離。
この作品で死は直接的には描かれないが、ハンナが演じる舞台はアウグスト・ストリンドベリ『死の舞踏』であることに注意。
ゾフィーがピエールと初めて会話を交わすまで、何度ピエールが登場しただろうか。工場が2度、バーが1度だから3度?ということは4度目の正直?いや、5度目だったろうか?
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アンゲラ・シャーネレク『オルリー』(2010)
シャーネレク作品には珍しくシネスコサイズ。オルリー空港という空間を群像として捉え、空港の集合と拡散というシステムの二重性にはこのフォーマットが必要であり、そのことで“集/散”の群衆を捉えることができる。空港とは人が集まりそして散るという時間経過のことであり、シャーネレクの映像は時間の可視化である。
本作も人間は本来的に苦悩を強いられる者として描かれる。見知らぬ者たちが集う空港。彼らはどこかで繋がっているようでもあるのだが、そこにあるのは“集/散”の二重性である。それ以外なにも描かない素晴らしさ。
カメラは一つに焦点を合わすことはない。空港とは群像であり、“集/散”というシステムであり、シャーネレク監督は一つの物語に還元しようとはしない。パンフォーカスなのはそのためか?そして、突然告げられる空港の閉鎖。新たな時間の始まりなのだが、その後のことは描かれない。
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アンゲラ・シャーネレク『はかな(儚)き道』(2016)
数日前に見た作品の再鑑賞。
イメージの中心性という非拡散。登場人物や音がフレームを外れたとしても、知覚の中心化は持続される。コスチューム(靴を含めて)の持続も中心化と関連がありそうだ。死も中心化される。つまりにケネスの不在であっても死は中心・ベルリンで知覚される。テレーズとケネスの再会後、俯瞰ショットで捉えられたベルリン中央駅前広場のショット。ケネスが連れた犬をかろうじて確認できるのだが、そのショットではケネスを確認できない。塀の背後にいるかのようでもあるのだが、その後の駅のホームのショットでケネスの死を知覚させる。ホームに転がる靴の片方を捉えたショット。それは、ケネスがギリシャで履いていたものだ。ケネスの自殺は、その後のベルリン駅前の俯瞰ショットで犬の持ち主の不在で判明する。
犬により、ケネスとテレーズ、そして女優アリアーネの二つのパラレルな時間軸が、ベルリン駅前広場の犬の存在により一つの時間軸へと収斂する中心化作用。フレームもスタンダードサイズという中心化である。
ベルリン中央駅前広場の地下通路壁に凭れかかって座るケネスと犬を捉えた4層のショット。
1層目…ガランとした広場におけるケネスと犬。これは観客にケネスを視認させる俯瞰ショットだ。
2層目…ケネスとテレーズの再会のショット。
3層目…1層目のショットと逆方向から捉えた俯瞰ショット。犬の存在は視認できるがケネスは位置的には地下通路壁の背後の存在で視認不可能。この俯瞰ショットに続きホームに転がる靴の片方を捉えたショット。
4層目…犬の俯瞰ショット。そこにはケネスはいない。端正なショットの積み重ねが映画を生成する。
映画終了後の監督のトークにおけるレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』への言及。これは監督へのわたの質問である。苦悩を強いられた人間。人間は行動を起こす以前に、苦悩を強いられた存在であることをレビ=ストロースの書物から感じるとの監督の発言である。
プールの子供たちのシーン。夜のコートでサッカーのボールを蹴る女の子。そのリズム・音の心地良さ。
原題『Der traumhafte Weg(夢のような道)』。英題『The Dreamed Path』。邦題『はかな(儚)き夢』のダブルミーニングが際立っていて面白い。「はかなき」は「はかない」けれど、「儚き」は「夢」を内包する人であればこそ、である。
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アンゲラ・シャーネレク『私の緩やかな人生』(2001)
数日前に見た作品の再鑑賞。
本作にも靴が出現する。愛人の死をまじかにした老女の靴、『はかな(儚)き道』の死そのものであるホームに転がった靴の片方、『昼下がり』の死の病に侵された男の靴、シャーネレク監督にとり、靴は死の表象なのかもしれない。
死について…
『はかな(儚)き道』→ケネスの自殺
『私の緩やかな人生』→ヴァレリーの父の死
『昼下がり』→コンスタンチンの自殺とアレックスの死に向ける病
『マルセイユ』→直接的な死はないがアウグスト・ストリンドベリ『死の舞踏』。ハンナがイェニイ役で出演する舞台の稽古シーンを想起
シャーネレク作品…省略の圧倒的な自由と変形反復(加法と減法)の厳格さ(交換不可能な変形)、それが簡潔さとリズムを生み出す。でこの場合の簡潔さとは、研ぎ澄まされた目と耳という意味。耳も目も自由には選べないほどの研ぎ澄ました編集。これがシャーネレクの映画を生み出している。
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アンゲラ・シャーネレク『オルリー』(2010)
数日前に見た作品の再鑑賞。わたしはシャーネレク作品が好きでたまらない。
死の病のテオ。テオはサビーヌの元夫。サビーヌはベルギーに戻ろうとしているのか。ピアノの音とともにリメンバー・ミーの歌。
シャーネレク作品におけるショット。知覚としてのショット。ショットの丹念な積み重ねが映画を生み出す。たとえば『はかな(儚)き道』におけるケネスと犬のショットの層。
黄色の知覚…『オルリー』のドイツ人のカップルの持つ本の背表紙が黄色、『マルセイユ』のゾフィーのワンピースの色が黄色、『はかな(儚)き道』のギリシャでのバスから降りてきた若者たちのナップザックの色が黄色。シャーネレくの黄色への偏愛。シャーネレク監督の第1作短編のタイトルが『Shöne gelbe Farbe(鮮やかな黄色)』(日本未公開)
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アンゲラ・シャーネレク監督作品
日本のアンゲラ・シャーネレク受容の薄さがさみしい。現時点で彼女の作品が上映された都市は東京(アテネフランセ)と京都(出町座)だろうか。シャーネレク作品をブレッソンとの類似で述べる人が多いのだが、それよりも、ジャン・ユスターシュ、マルグリット・デュラス、そして小津作品の文脈で述べることでより豊かな作品世界が開けてくる。いつの日か作品論を書いてみたいのだが、再上映の機会がゼロに等しい作品はただ忘却し、もしくは記憶の書き替えで時間とともに本来の作品から遠ざかるのがわたしの脳細胞の常態である。ネットで調べると、ドイツで一部の作品がソフト化されているようだし、フランスでBOXが発売されている。取り寄せるしかないということか。
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ウォン・シニョン『殺人者の記憶法』(2017)
韓国映画ということで期待したのだが…。痴保と殺人、そして記憶。なにが真実なのか。テーマとしても興味深いのだが、作り方がセンセーショナルなるがゆえにどこかに白々しさもある。テーマとして記憶が通奏低音としてあり、記憶の複層性ゆえにいくつもの構成が可能である。実際、別バージョン『殺人者の記憶法:新しい記憶』が同時上映されているけれど、なんとなく見る気になれない。
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佐藤零郎『日夜釜合戦』(2017)
ひと月ほど前に見た作品の再鑑賞。その時はデジタル上映だったが、今回は16ミリ上映ということで再見することにした。しかし、フレーム左のピントが甘く、スタッフの説明によると、技術的なことだという。
空き缶拾いの2人の老人の、欲望を超えたところにあるオプティミスト的視線が、ロッセリーニ『髪の道化師 フランチェスコ』を想起させる、というのが前回見たときの印象だった。だが、再鑑賞した感想は、フランチェスコの楽天性は何処へ、という負の重力が働いていることに気づいた。これはピントの甘さとは関係ないのだが、大好評の作品にしてはどうなんかな〜というのが率直な印象だ。
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タル・ベーラ『ニーチェの馬』(2011)
35ミリフィルム上映。
読む力を必要とする作品なのだが、映像の圧倒的な画力がそのことを可能にしてしまうという驚き。ここにあるのは映像の力。静も動も画が全てを語っている。これはタル・ベーラ監督作品の映像の肉感性ともいえることなのだが、並みの監督ではこうはいかないだろう。
ベッドに横たわる父親を足元から捉えたショット。マンテーニャのピエタ『死せるキリストへの哀悼』を想起させ、復活のない終焉としての残酷劇、永遠の罰のようだ。
本作をDVDで鑑賞したことがあるのだが、デジタルでは再現不可能なことがあることに気づく。それは明暗の表現である。この場合の明暗とはコントラストということではない。暗のディテール、明のディテール。部屋から埃の舞い上がる霧の世界へとつながる映像の明の強さと美しさ。強でありながらそれは過剰な白ではなく明のディテールの再現である。そこでは室内と室外、つまり家の内と外とが人間内部の表象となる。そのことで、より一層、人間の闇が露わになる。
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ジャック・タチ『ぼくの伯父さん』(1958)
本作のセットはニースのスタジオで大規模に組み立てられた特権的なパリ。これほどまでにイメージと音響の融合する作品はそうあるものではないだろう。人の台詞すらも環境音、あるいは音楽となり、それが登場人物の身振りや動きと共鳴し、映画の可能性を拡大していることにあらためて驚く。
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ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ『放蕩息子の帰還/辱められた人々』(2003)
『労働者たち、農民たち』の挿話を再利用した『放蕩息子の帰還』と、その後日譚『辱められた人々』の二部構成。後者では、山中の共同体に地主代行や元パルチザンらが訪れ、土地所有権を侵害する違法性、自給自足経済の割りの悪さを説き、共同体を崩壊させる。
『放蕩息子の帰還』はストローブ=ユイレ初のドルビーステレオ。その後編である『辱められた人々』はモノラルだというのが面白い。これはフレームの中心原理主義への回帰でもある。
二作品とも山中で撮影。前者冒頭カメラは右方向に一回転パーン。最終ショットは山中から左方向に半回転パーン。遠くに湖。
後者最後のショットはうずくまった女性のショット、下方にチルト。地面と半身、女性の手は握り拳。
『放蕩息子の帰還』:左に労働者たちを配置、右に農民たちを配置。テクストを読む朗読劇とも考えられる。朗読から次第に劇性へと移行。
本作において呈示されたテクストは単なる情報としての文字ではない。演者たちが手にする、あるいは地面に置いたテクストに注意深く目を向けると、色付けされ、図形化された、ある種のオブジェとしてのテクストであることに気づく。演者はオブジェ化されたテクストによる声のアーティキュレーションを要請されるのだろう。それは異和・異化を生み出すアーティキュレーションでもあり、ストローブ=ユイレの作法をアーティキュレーションとして捉えることも可能なのかもしれない。テクストと演者、その間に横たわるのは、両者は必ずしも一体ではないという曖昧領域だろう。ストローブ=ユイレはそのなかに新たな可能性を見出したに違いない。
『放蕩息子の帰還/辱められた人々』に立ち現れる物語のダイナミズムは、『労働者たち、農民たち』で見られた地層の高低が、より明確な人物配置の高低として呈示されたからでもあるに違いない。
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ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ『アメリカ(階級関係)』 (1983・84)
ハンブルグとブレーメンで1983年7月2日〜9月20日の13週間かけて撮影。他に、ニューヨークとセントルイスで9月21日〜25日に撮影。フランス語字幕はダニエル・ユイレ、イタリア語字幕はドメニコ・カロッソとの共同字幕。
本作を見て思ったのだが、室内での人の配置や時間の経過=移動にシャーネレク作品と共通するものがあるのではないだろうか。シャーネレクはブレッソン、ゴダール、アントニオーニとの関連で語られることがあるけれど、彼女はストローブ=ユイレの遺伝子を受け継いでいるのではないか。
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ジャン=マリー・ストローブ『慰めようのない者』(2011)
原作の邦訳は『異神との対話』の中の「慰えぬもの」(《パヴェーゼ 文学集成6》岩波書店)。ト書きに「性と酔いと血はいつでも地下の世界を呼び覚まし、一再ならず地底の至福を約束した。けれども詩歌に長け、冥界への通行者となり、ディオニューソスとして同じように八つ裂きにされた犠牲者、トラーキア生まれのオルペウスは、それ以上に値したのだ。」とある。
この物語はオルペウスとバッケーの語りである。
バッケーを演じるジョヴァンナ・ダッディは左足を苔むした石にかけ、右手を腰に当て左手は左足の腿に置き、絶えず目をつむる姿勢で語る。最後に「あの神を、八つ裂きにしなければ」と目を見開く。原作ではわずか6ページなのだが、自然や歴史といった時間の堆積を感じさせる森を背景に、二人の会話はドラマチックである。
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ジャン=マリー・ストローブ『影たちの対話』(2014)
冒頭のモノクロだが、「アンナ・マクダレーナ・バッハの日記」からの引用なのだろうか。
二人の対話は交互の正面ショットとして捉えられ、それは物語を創出するデクパージュではない。コルネリア・ガイサーの背景は小川と牧場の長閑かな田園風景、ベルトラン・ブルデールの背景は樹木が茂る森の様相。だが、どちらも豊かな光に満たされて、ベルナノスらしからぬ空気感を漂わせている。二人の交互ショットを見るわたしは、対面した位置関係の二人の対話であると理解していたのだが、最後のショットで、二人は並んでベンチに腰掛け、同一の背景のもとに撮影された視線が交差しないショットであることがわかる。
《映画日記6》 五十嵐耕平、ダミアン・マニヴェル作品、ほか
に続く。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
わたしは未見ですが、第36回東京国際映画祭で上映された
アンゲラ・シャーネレク『ミュージック』(2023)の予告編