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【映画評】 デヴィッド・ロバート・ミッチェル『アメリカン・スリープオーバー』ゼロ年代アメリカ青春映画と〝神話〟

         (写真=Gucchi's Free Schoolより)

デヴィット・ロバート・ミッチェルの長編デビュー作『アメリカン・スリープオーバー』(2010年)
スリープオーバーとは外泊のことである。この作品の場合は〝お泊まり会〟。日本では幼児の〝お泊まり会〟ならありそうだが、高校生や大学生の〝お泊まり会〟はあるのだろうか。気の置けない仲間内の飲み会で終電がなくなり雑魚寝、あるいは気がついたら朝になっていたというのならある。だが、集団で泊まることを前提に、新学期直前に同性同年代の(しかも新しく高校生、あるいは大学生となる)若者たちが一つ屋根の下に集い、パジャマ姿で夜通しビデオを見たり恋話に花を咲かせたり将来について語り合う〝お泊まり会〟というのをわたしは知らない。高校生以上のお泊まりといえば、基本的にカップルであり、映画内における一泊の林間学校のような〝お泊まり会〟はアメリカ特有の行事なのだろうか。実態がどうなのか全く知らないのだから、ストーリーの有り無しについて論じることはわたしにはできない。そして、原題が《 The Myth of the American Sleepover》であること、つまり《Myth》から、なおのこと、劇中の〝お泊まり会〟が真実のアメリカを反映しているかは不明となる。あくまでもアメリカのお泊まり会の〝myth=神話〟なのだろうか、それとも監督の思春期である80年代の記憶としての〝神話〟……劇中に、アメリカでは「10代は神話なんだ」という台詞がある……なのだろうか。

若者のお泊まり会といえば性的な事柄を想像してしまうのだが、この作品には異性を追い求めることへの躊躇いのようなものがあり、掴みきれない青春の、実像と虚像とがないまぜになった、怪しくも狂おしい(あるいは愛おしい)光景が映し出されていて面白い。とりわけ興味深いのが、特定の登場人物に焦点を当てることで物語を立ち現わせようとはしないこと。登場人物を群像として捉え、層としての青春を映し出している。その青春群像はごく当たり前のどこにでもあるいくつかの集合体で、物語という特殊なベクトルを発生させるわけではない。だからといって映画が平坦で退屈なのかというと決してそんなことはない。集合体を構成するそれぞれの登場人物たちが、先へ進もうと思いながらも何らかの躊躇がその気持ちを沈め、あるいはそのことで幾分コントロールを失うという事態も発生させたりもする。つまり、集合体にそれぞれの固有値を持たせながらも、バラバラに配置された集合体相互に時間の通行路・交錯を組み立ててゆくのである。それはまるで「洛中洛外図屏風」のようであり、屏風が雲や河で物語の同時多発性を文節化しているように、『アメリカン・スリープオーバー』もフレーム内での登場人物の交差や、水辺や夜のショットの巧みな反復で、地方都市の若者たちの織りなす一夜の、凝縮した屏風図を描いている。そのことで、物語としての密度は nowhere dense(いたるところ疎)どころか、everywhere dense(稠密)となっている。

原題の〝神話=Myth〟なのだが、仮想とか虚構というのではなく、監督を取り巻く仲間たちが一夜の舞台を回想するとともに、その何気ないアメリカの日常をフィクションとして撮るということ、そして2002年の脚本完成から映画完成まで8年の年月を要してしまったことも作品の〝神話〟化、あるいは奇跡のようなものとしてあるということなのかもしれない。

その〝神話〟が端的に表れるのが、映画冒頭のプールサイドのシーンとスーパーの通路のシーンである。そして途中挿入される2つのダンスの美しい挿入ショット(3つの扉からフレーム前面に向かってただ全力疾走するだけの3人のショット……これをダンスと称したい。そして中庭でのマギー(クレア・マスロ)のソロダンス)。

映画冒頭のプールサイドのシーンだが、マギーは「もっと楽しい〝なにか〟をすべきじゃないか」と友だちのベスにぼやく。〝なにか〟への希求とは、この作品が〝神話〟へと向かおうとする宣言のようにも思える。
つづくスーパーマーケットのシーン。アルバイトのロブ(マーロン・モートン)がすれ違ったブロンドの女性に一目惚れする。アメリカ消費社会を象徴するような通俗的なシーンなのだが、商品の陳列棚により相互の眼差しの分節化と統合という往還を発生させるなど、まさしく古典的な青春映画への参照と映画的特権を見るものに与えてくれる。このシーンだけでも、わたしは本作品を見ることの快楽と愉悦を覚えた。

そして2つのダンスの挿入ショット。中庭でのマギー(クレア・マスロ)のソロダンスと3つの扉からフレーム前面に向かってただ全力疾走するだけの3人のショット……これをダンスと称したい。これは特別な時間への誘いであり、〝神話〟とはこのショットのこと、これを〝神話=映画〟と名づけてもいいのではないだろうかと思えるほどだった。この場合、〝神話=映画〟とは、過去へのオマージュであると言ってもいい。それは、直接的にはヌーヴェル・ヴァーグへの眼差しである。とりわけ、ゴダール『はなればなれに bande à part』(1964年)における、ルグラン・ナンバーと共にアンナ・カリーナたち3人がカフェで踊るシーンや、ルーブル美術館での3人が全力疾走するシーンの爽快感を呼吸しているようでもあった。そして、『はなればなれに』が音楽劇であるという設定も『アメリカン・スリープオーバー』には織り込まれている。だが、ここで注意しなければならないのは、『アメリカン・スリープオーバー』がこのようなシネフィルとしての眼差しのみに還元されるのではないということだ。それよりも、ヌーヴァル・ヴァーグを経由したアメリカ映画への参照と理解したほうが、フィクションとしての時間をより深みへと誘ってくれるだろう。デヴィッド・ロバート・ミッチェルというルーキーが過去のアメリカ映画を直接参照するのではなく、ヌーヴェル・ヴァーグへという経由地を求めたことは、ゼロ年代アメリカ青春映画の傾向なのだろう。そのことで、記憶としてのアメリカ映画が反復され、差異という記号を伴って〝神話〟化されるのかもしれない。しかし、わたしにはアメリカ青春映画を俯瞰できる知識も洞察力もないから、はたしてどうなのだろうか。わたしの分析の正否はともかく、ほぼ一夜の時間を撮った本作品。それをここまで魅力的に撮れる監督はそういるものではない。

『アメリカン・スリープオーバー』の次作は『イット・フォローズ It follows.』(2014年)。ホラー映画と称さられているが、デヴィット・ロバート・ミッチェルは青春映画からホラー映画へと単に転換したのではない。『アメリカン・スリープオーバー』における思春期をとりまくどこか得体の知れないものや愛の現場である廃屋への接近と逃走、そして頻出する水辺と水浴の怪しげな光景。これら全てが、『イット・フォローズ』の〝それ〟と繋がるのだと気づくに違いない。

《デヴィッド・ロバート・ミッチェル作品に通底するもの。『イット・フォローズ』『アメリカン・スリープオーバー』》に続きます

(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)

『アメリカン・スリープオーバー』トレーラー


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