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【映画評】 ペドロ・マイア監督〜アナログ・シネマ〜WASTE FILM(考)

ペドロ・マイア監督〜WASTE〜アナログ・シネマ〜覚書

1983年ポルトガルで生まれ、現在はベルリンに在住する監督ペドロ・マイア(Pedro Maia)。
アナログ・シネマを主なコンセプトとして作品を制作する前衛映像作家である。

アナログ・シネマとはデジタル・シネマの対概念でもあるのだが、いわゆる〈フィルム/デジタル〉という対立項に回収されるものではない。

〈フィルム←→デジタル〉変換ラボで働くペドロ・マイア。
彼がアナログの技術性・芸術性を自覚的にアプローチしたのは2009年、サンドロ・アギラール監督『A Zona』の助監督時代である。
助監督時代、彼はテスト用フィルムとしての映像を撮る作業を行うのだが、テスト用であるがゆえに予め作品外としてゴミとなるフィルムである。彼がそのゴミ・フィルムを譲り受け制作したのが『Aries(Zona)』(2009)である。

ところでわたしは、『A Zona』はおろか、サンドロ・アギラール作品を鑑賞する機会をいまだ持たないのだが、彼の名はミゲル・ゴメス『熱波』(2012)のプロデューサーとして記憶している。また、ミゲル・ゴメスが注目の監督として彼の名を挙げている。
ネット検索すると、ブエノスアイレス国際インディペンデント映画祭2013に“Sinais de serenidade por coisas sem sentido(「無意味なものへの静謐な兆し」)”をエントリーしている。同映画祭には、二人のジョアン、つまりジョアン・ペドロ・ロドリゲス+ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マダ『追憶のマカオ』もエントリーしており、両作品共受賞を逃している。信じられない。
わたしは日本で『追憶のマカオ』を見たのだが、その日、日記にこう記した。

「この映画は夥しい声と映像の資料(ドキュメント)なのか物語(フィクション)なのか、それとも名づけることの不可能なフィルムなのか。おもわず〝ファンタズマ〟と言ってみたくもなるのだが、そう口ずさんだところで、掌からボロボロとこぼれ落ちてしまうものがあることに気づくのが落ちである。とこのフィルムの内部にも外部にも、そしてその境界にも周縁にも接近することができないわたしは、しかしまあ、とんでもない映画を見てしまったものだ。」

それはともかくとして、権利が放棄されたフィルム、破損したフィルム、あるいは廃棄を前提として撮られたテスト用フィルム。そして、ホーム・ムービーという親族以外にはほとんど興味を引かない忘れ去られる運命にある8ミリフィルム。それらはいわばWASTE(廃棄物。これぞ「無意味なものへの静謐な兆し」ではないか)としてのフィルムであり、社会からは意味を剥奪されたフィルムである。ペドロ・マイアはこれらフィルムを編集し再構成することで、放棄されたフィルムを世界に埋め込むと、もしくは世界に接木するという、フィルムの世界化=社会化を行っている。それは、前述の二人のジョアン作品ではないけれど、フィルムには〝ファンタスマ〟というものが潜んでいるからではないのか、と呟きたくなるほどである。

ペドロ・マイアの作品によるライブ

世界はWASTEフィルムとしてすでに在り、それを編集・再構成することで、再び世界に呈示する。そのとき、世界はすでに存在していた自分自身をも呑み込み、世界を再呈示・更新することでメタ化する。それは、フィルムが本来的、アプリオリに持つ〝ファンタスマ〟であることではじめて可能になるのである。ペドロ・マイアの作品を見ながら、そんなふうに思った。

『追憶のマカオ』の二人のジョアンもポルトガルの監督である。歴史的には世界で最初に大航海に出航し、最後に戻ってきたと揶揄されるポルトガル。現在ではヨーロッパの辺境となりはててしまったポルトガルの歴史地層が、彼らのような稀有の監督を生み出すのだろうか。

ペドロ・マイアは前衛・実験映像作家としてジャンル化され紹介されるのだが、「映画作家」と「前衛・実験映像作家」の違いは何なのか、彼の作品を見るとそんな疑問が湧く。映画を見た感じとしてなら〝なるほど〟と了解へと傾きそうになるのだが、その違いを厳密に定義するとなるとそう簡単ではない。実験映画はエクスペリメント・フィルム(experiment film)とできるのだが、世界は果たしてエクスペリメントなのか。ジャン=クロード・ルソーは自作をエクスペリメントと呼ばれることに違和感を抱くと述べたことがある。彼の作品はエクスペリメントではなくエクスペリアンス(experience)であると。わたしたちが生きる世界はエクスペリメント(実験)としてではなく、エクスペリアンス(体験)としてある。その意味で、エクスペリメントとしての映画は存在するはずはなく、本来的にエクスペリアンスとしてあるのではないか。ジャンル分けすることで視界が良くなることもあるのだが、そのことにより、他ジャンルとの、作品相互の接近を阻むことも生じるだろう。

作品はエクスペリアンスでなくてはならない。ペドロ・マイア作品を見ながらそんなことを考えていたら、唐突にも風間志織『チョコリエッタ』(2014)を想った。ペドロ・マイアにとってのエクスペリアンスはアナログ・デジタル変換ラボでのフィルム体験。風間志織にとっては3.11後の日本社会の空気感という体験。風間志織『チョコリエッタ』の不意の出現に、わたしの脳細胞はファンタズムとなりそうになった。

エクスペリアンスを意識させる作品を目にし、わたしはなにものにも代え難い良質な出会いを感じたのだ。

16ミリフィルム上映

(追記)
ペドロ・マイア作品には、オーストリアのグスタフ・ドイチュ監督作品にある、世界はあらかじめ断片化されており、それをどのように編集するのかを実践する場としての映画を想起させるものがある。
わたしが彼の作品を見たのは大学のホールだったのだが、彼の作品はクラブやライブで上映されることが多い。つまり、身体的体験としての映像である。YouTubeでも公開されているので、いくつかの映像を末尾に紹介しておく。

わたしが見たペドロ・マイア作品は以下の通り。配布された資料より転載。
①『Memory - Super 8 Series#3』12分(2001)Super 8をDV PALに変換
レア・レノックス(パンダ・ペア)とのコラボレーション。
②『Aries(Zona)』10分(2009)35㍉をDV PALに変換
サンドロ・アギラールによる作品 “A Zona” の撮影素材より由来。
③『Plant In My Head』11分(2014)Super 8をHDに変換
愛する誰かを失うことについての作品。写真家リタ・リノとの共作。
④『Portrait S8S - #2 #3 #4 triptic』8分(2008)Super 8をDVDに変換
Solar – Cinematica Art Gallery(ポルトガル)で行われたマルチスクリーンによるインスタレーション。作家自身が家族を撮ったホームムービー(8㍉フィルム)より生まれた。今回の上映は3面スクリーンに編集。
⑤『You and I - Gala Drop』6分(2014)Super 8をHDに変換
ガラ・ドロップのアルバム『Ⅱ』のアートワークをもとに、ペルー(1978)や中国(1984)のファウンド・フッテージや作家自身のホーム・ムーヴィー、新たに撮影したショットをミックス。 
⑥『 ““Sleepless” - Svreca』6分(2015)16㍉&Super 8をHDに変換
Svreca(テクノ)、嶋村由里子(画家)とのコラボレーション。

⑦『Drowned in Water Light - Vessl』5分(2015)Super 8をHDに変換
Vesselのアルバム“Punishe Honey”からインスピレーションを受けた作品。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

Shapednoise+Pedro Maia present Aesthesis - Belin Atonal 2019

Primary Optics:Pedro Maia on creating 'live cinema' for music analog film

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