【映画評】 熊切和嘉監督『光の音色 THE BACK HORN Film』
紋別を舞台にした『私の男』、函館を舞台にした『海炭市叙景』。両作品で北海道出身者であればこそ可能な北の鮮烈な映像を呈示した熊切和嘉。彼と撮影監督・近藤龍一の生み出す映像には、明治以降の人間模様の堆積した時間、生とは自然との落差でしかないという厳しい地誌、それらが大気の中に溶け込んだ風土としての残酷なほどの美しさであった。そんな稀有な映像美を生み出した熊切和嘉監督が、撮影監督に橋本清明を迎え、オルタナティブロックバンド《THE BACK HORN》とタッグを組んだ映像作品が『光の音色 THE BACK HORN Film』である。
この作品を見た後のわたしは狼狽した。『光の音色 THE BACK HORN Film』に展開されるイメージを、わたしは『私の男』『海炭市叙景』のどのあたりに布置させればいいのだろうかと。接続を要請されているようでもあるし、切断面として呈示されているようでもあるこの作品。そこにあるのは、ジャンルの過激な横断、それとも、ジャンルというカテゴリーの消失。そんな事態に遭遇したとき、わたしは狼狽し、あたかも、なにか得体の知れないものを目にしたときのように、おもわず逃避場所を求めて、仕方なくも〝ジャンル〟などと分かったような言葉で防御しようとした。それが無意味であると知りつつも、そうせざるを得ない自分の情けなさに言葉を失ったような気がした。『光の音色 THE BACK HORN Film』には、思考を撹乱させる魔力があるのではないか。
ここではひとまず、『光の音色 THE BACK HORN Film』を〝音楽/映画〟と名づけておく。言うまでもないが、音楽映画ではない。
映画には劇伴音楽というものが存在する。これに疑問を持つ者はいないだろうし、逆に映像付きの音楽も直ちに了解(=受容)できるだろう。前者は劇映画であるし、後者はミュージシャンのPVや、ライブを記録した映像、たとえばクラムボンの『えん。~Live document of clammbon~』もその部類に属する映画と言っていい。そこでは映像と音楽が主従の関係にあり、前者は映像音楽であり、後者は音楽映像といえる。ところが、この主従が曖昧であるばかりか、主従といったヒエラルキーが無効になる映画も存在する。すでに多くの人に認知されているMOOSIC LABなどはその傾向にあり、映像と音楽が、時には浸食し合うという事態も発生する。たとえばMOOSIC LAB 2014の作品である三浦直之『ダンスナンバー/時をかける少女』では、挿入歌は映像を浸食し、映像は挿入歌を浸食するという相互浸食を発生させたりもするのだが、さらにその二者が等価となる事態に、感動とともに驚きをも隠せないだろう。ところが、『光の音色 THE BACK HORN Film』を前にしたとき、驚きとか感動といった凡庸な感情すら通り越し、狼狽という、心の安定をいたたまれないほどに打ち砕かれてしまったのだ。
舞台はロシア・ウラジオストックの荒野。ひとりの老人が妻を埋葬すべく穴を掘っている。ブリキ缶の中には二人の思い出の品。老人は妻と共に思い出までも埋葬しようとするのだが、そこには二人が幼馴染みだった子どもの頃の写真と思い出の場所の風景写真がしまわれていた。それを目にした老人は、妻を埋葬するのではなく、亡骸をリヤカーに乗せ、思い出の場所への道行き(それは妻の葬列でもある)を決意する。その場とは、世界の果てのようでもあり始まりの地点のようでもある。老人にとり、道行きとは死と再生の同時性を意味し、世界の果ては人生の真の終末地のことであるがゆえの再生地でもある。
ギーンという音が鳴り響くと同時に、道行きに寄り添うかのようにTHE BACK HORNの音楽が始まる。このように書けば映像と音楽が蜜月であるかのようだが、事態はそう簡単ではない。音楽が過剰に映像に意味を与えるわけでもないし、映像が音楽の情景というのでもない。そのどちらも、不可侵であり続けようとしているのだ。熊切和嘉は、ライブの新しいドキュメンタリー・フィルムを模索しているかのようでもある。老夫婦の家に突如、パルチザンが逃げ込み、兵士と銃撃戦となる。老人の妻はその流れ弾に当たり命をなくし、THE BACK HORNの戦争の悲惨さを歌うスタジオライブ映像が挿入されたりもするのだが、そこでは映像と音楽が共鳴し合うというのではなく、それぞれ別なものとしてある。だからといって、音楽と映像のザッピング、あるいは組み替え可能というのでもない。映像は映像であることをやめないし、音楽は音楽であることをやめない。老夫妻の道行きにおける死と再生の同時性と同じように、両者は相互浸食することも、分化することもなく、なにものにも回収することが不可能な事態を前に、わたしは狼狽するしかなかった。
老夫妻の道行きは、死と再生であるように、熊切和嘉の作品には、古い映画からの決別であると同時に、映像と音楽の新しい関係性が生まれる予兆でもある。熊切和嘉はライブの新しいドキュメンタリー・フィルムを模索することで、表現の更新を試みようとするとともに、映像と音楽とのあり様を再定義しようとしているに違いないと思えた。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
『光の音色 THE BACK HORN Film』予告編
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