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【映画評】 《大力拓哉&三浦崇志映像作品集》覚書

2015年5月、京都河原町五条に誕生したLumen Gallery。映像の可能性を追求する映像ギャラリーとし多くの上映が行われてきたのだが、2020年に始まる社会状況の影響を受け、2022年3月、閉廊となった。その7年間、多くの企画上映や映像個展が行われたのだが、その中の一つ、《大力拓哉&三浦崇志映像作品集》展(2016.5.31〜6.5)について、備忘録を兼ね、記しておきたい。

大力拓哉&三浦崇志は、1980年大阪府出身、幼馴染みの映像作家デュオである。ジャンル的には実験映画なのだが、大阪人らしくユーモアに富み、彼らの作品を見た誰もがクスクス笑いがとまらないだろう。監督だけでなく、脚本、出演を兼ねている。

彼らは版画・音響(大力)、写真(三浦)と、映画以外の制作活動も行っているのだが、映画の随所にその痕跡を見ることができる。

上映作品は
『ネコ』(2007)
『僕達は死んでしまった』(2008)
『ニコトコ島』(2008)
『コロ石』(2010)
『石と歌とペタ』(2012)
『Road Movie』(2014)
『今日も順調』(2015)
『ほなね』(2016)

この中から比較的新しい『石と歌とペタ』、『Road Movie』、『ほなね』について感想を記してみたい。


✳︎『石と歌とペタ』(2012年)

登場人物は石と歌とペタの3人。彼らは乗用車に乗り出かける。「これはロード・ムービーなのか」、とわたしは一瞬思う。フロントガラスに打ちつける雨粒とその音響。ガラスに砕けて流れ落ちる雨粒の中に見える風景。それは水気に溶けて流れ、形ではなく液体となった色彩となる。車の中の3人のシーンも面白い。わたしも同乗してみたいなと思う。

陽の当たる樹林。寝転ぶ3人。何をするわけでもなくただそこに在るということ。なぜそこに在るのかというのではなく、在るという単純明快な状態の呈示。意味ではない。ただ在るということ。

採石場跡のため池。小石を投げる3人。そしてサルの戯れのような動作。キューブリック『2001年宇宙の旅』の、道具を発見したサル(文明への移行)を思わせる。そして空洞。それは中味を排除した映像であり何もないことの呈示でもある。映像に意味をもたせてはいけないし意味を付与する行為も禁止する。空洞とは零度の映像。意味に収斂するという「思考の遠近法」への禁忌。採石場の石があり、空穿に溜まった水があり、褐色の大地があり、そこに石と歌とペタの3人がいる。これはロードムービーではないだろう。なぜなら、ロードムービーは移動と時間の物語であり、そこに空洞は必要ないからだ。

✳︎『Road Movie』(2014)

33年前にこの星に来た大力と三浦。3日前にこの星に来た松田。大力と三浦は松田に会うために車を走らせる。この星に来て33年になるのに、道に迷う大力と三浦。そして着いて間もない松田にとってもこの星は未知の世界で不安内。だから約束の場所にたどり着けない。大力と三浦は道中、宇宙から来たという人たちと車中を共にする。不思議にもみな日本語を話している。日本語は宇宙語なのか? だが、ひとりの女性が他言語を話し、コミュニケーション不能である。はじき出される宇宙他言語があるようだ。それはボケとツッコミのようでもあり、わたしは苦笑してしまった。

3人は出会うことができるのだが、その間、車中でものを食べるシーンあり、不器用な恋愛あり、山中を駆ける身体の疾走ありで、盛り沢山のロード・ムービとなっていて観る者を惹きつける。さらにこの映画が興味深いのは、大力、三浦、松田の3人の登場人物が物語を生み出すのではなく、その周りの様々な宇宙人を配置することで、脱・中枢化が試みられていることである。ロード・ムービーという時間を惹き上げるのではなく、時間の周縁への散逸という物語の脱・中枢を見せている。

終盤、松田は自分の星に戻る。直行便だと7日、経由便だと7ヶ月かかるという。天体間の定期便が就航されているのか、それともチャーター便なのか。宇宙間の直行便、経由便というアイデアも笑ってしまう。散逸する物語としても映像としても楽しめ、そしてモノクロという、現在ではその事だけでSFとなるうる映像が魅力でもある。

✳︎『ほなね』(2016年)

ビデオが趣味らしい伯父と伯父が撮った映像を見る甥。撮ったビデオを持って伯父が甥の家を訪れ、ビデオを見ながらの叔父と甥、二人の会話で映画は進行する。観客は二人と一緒にビデオを見る、という設定である。

映画冒頭、何も映っていないディスプレー。そこに二人の会話が挿入される。ディスプレー上部の欠けた映像や横に伸びた映像。機材の設定が悪いのか、二人の不慣れな操作で映像はうまく再生されない。ああだこうだと操作の模様をうかがわせる二人の会話が面白い。観客であるわたしも口を挟みたくなる奇妙な気持ちである。操作に迷ったのち、正常な映像が映し出される。

伯父はビデオを撮るたびに甥に見せに来る。そして帰り際、「ほなね」といって帰るのが通例。反復される「ほなね」の、時間の分節化であるとともに次回への予感でもある言葉の軽やかさ。映像とは反復されるものである。タイトルが秀逸である。

「ここはなあ」という伯父の解説の始まり、そして伯父と甥との応答。甥の質問に伯父が答えをはぐらかしたり、伯父の居眠りで返答がなかったり、「ちょっとおしっこ行ってくるわ」と甥が席を外したりと、大阪生まれの監督デュオらしい会話。さらに監督二人が他者としてビデオに登場したり、まことしやかに妖精が登場したりと、何と人を喰った作品であることか。

このような大阪的な面白さばかりではない。無音から突如有音に移行する音のドラマ。地面を打つ強い雨音と地面に跳ねる雨粒。霧のかかる山の情景。水位の増した雨後の河。赤く錆びたトタン屋根。ビルの壁面。廃墟のような旅館。神社の跡地に建てられたビル。工事中の河川敷。工事トラックの轍と水たまり。それらは光景としてあるばかりではなく、そのどれもが映像の背後への視線を要請する、剥き出しの物質感に溢れた事態をも映し出している。まるでマテリアル・サスペンスのようだ。エドワード・ヤンの『恐怖分子』を想起したくなる。映っているものの虚構と、それゆえに起ち上がる物語。物質から生まれ出ようとする音声に耳を傾け解読する。サスペンスであると同時にホラーでもあるような気がする。撮れたものはすべて虚でこれから撮るものだけが実。そして、撮られた瞬間から虚になる。彼らの作品は〈虚/実〉の永久運動なのだろう。

伯父は死に、ビデオ上映会は終焉する。そして「ほなね」の声も消滅する。

*)伯父と甥の会話・対話、それともイメージを声に還元する行為。
*)声による創造と脱創造。創られたものを、創られずに初めから存在するもののうちに移り行かせること。(シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』)
*)「ここはなあ」という伯父の指示とともに存在と時間への問いが始まる。ここにあったものの不在(それは死者かもしれない)と出現するかもしれない未来。
*)二人の会話・声。祈り・呪(まじな)い・呪い。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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