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【映画評】 宮崎大祐《ニンゲン三部作》 (1) 『Caveman’s Elegy』トートロジーとしてではなく

《ニンゲン三部作》は、井出健介の歌「人間になりたい」から着想を得た短編三作品であり、音楽を源とする短編集と言ってもいいだろう。かつて音楽を主題にした映画フェス(現在もあるかもしれない)MOOSIC LABがあったが、宮崎大祐監督にかかるとこんなにまでも社会論的、存在論的深度に満たされた作品になるのかと、わたしは驚きと感動を隠せない。

以下、三作品の感想を書くのだが、いくぶん長くなりそうなため、2・3回に分割して掲載したい。

《ニンゲン三部作》は次の三作品からなる
『Caveman’s Elegy』20分(2021)
『ヤマト探偵日記/マドカとマホロ』23分(2022)
『I’ll Be Your Mirror』10分(2021)

『Caveman’s Elegy』(2021)

脚本:宮崎大祐、撮影:中島美緒、照明:松田直子、音響:黄永昌、編集:平田竜馬、音楽:井出健介、清岡秀哉、主題歌:井出健介「人間になりたい」
出演:清水尚弥、芦那すみれ

ストーリーに触れています。

向こうがあってこちらがあって、向こうとこちらには結界というものがあって、それによって世界は充溢している。とりあえずわたしたちはそのように考えてきたし、これからもそうであることで心の平安を保つことだろう。それを二分法の世界と言っていい。この二分法、記号化するならば、(A)と(not A)により満たされる世界。つまり、論理式
(A)or(not A)=truth
と記号化できる。記号論理学の復習ではないのだが、宮崎大祐の短編『Caveman’s Elegy』(2021)を論じるのに、なにゆえこのような前振りが必要なのかといえば、本作は、このtruthを揺るがす事態の呈示であるからである。

本作冒頭の台所のシーン。フレーム中央の前景に花の鉢植えがあり、その背後で、女が片足立ったダンスのようなポーズをとっている。フレーム右から赤いジョウロを持った若い男が歌を口ずさみながら現れ、途中まで歌うが「この歌なんだっけ」と歌詞が思い出せない。ジョウロで花に水をやりながら「ハイビスカス、死にかけてる」と男。「そうは思えないけど」と女。スタンダードサイズのフレームで呈示される冒頭の簡潔なシーン。続いてタイトル。そして、フレームは横幅がスタンダードサイズの倍近くはあるスコープサイズへと変わる。

女は本作冒頭で見た台所で夕食を作っているのだが、フレーム右から冒頭の男が不意に現れ、「ツカサからしばらく部屋を借りた」と述べる。だが、「聞いてないけど」と女は言う。ふたりの会話から次第に判明するのだが、女はツカサの姉であり、男はツカサの友だちのようだ。女はコロナ禍の感染防止のため、夫から逃れるようにツカサが不在にしている部屋へ逃れてきたのだ。そこにツカサの友だちではあるが見知らぬ男の闖入という予期せぬ出来事。女はこの事態を渋々引き受けることにする。

映画序盤の様子を記したのだが、ここで興味深いのはこのような叙述ではない。スコープサイズのフレーム中央に、ハイビスカスの鉢植えと換気のために開けられた窓枠が前景に配されていることである。近づこうとすると男に「マスクをしてないのなら近づかないで」と女。フレームは鉢植えと窓枠による前景で左右に二分されているのである。フレーム左に女、右に男、というように、ふたりはコロナによる同一の難民なのに、同一フレーム内で交差することはない。

映画冒頭のスタンダードサイズとそれに続くスコープサイズ。本作におけるスコープサイズは、二つのスタンダードサイズを並置することで発生したスコープサイズである。スタンダードサイズをふたりのそれぞれの居場所と言ってもいいだろう。居場所を「洞窟」と名づければ、この事態の表現の蓋然性がより明確になるだろうか。本作の主題歌である井出健介「人間になりたい」に次の歌詞がある。「ぼくは人間、ここは洞窟」。本作のタイトルは『Caveman’s Elegy』。Caveとは、ここで述べた「洞窟」のことのようだ。洞窟であるがゆえに、その場に止まることを要請され、隣人の洞窟へは越境できない。それゆえ、スコープサイズのフレーム中央に、ふたつの洞窟を分断するための鉢植えと窓枠を前景として必要としたのである。ところが、フレームの二分法。古典論理では
(A)or(not A)=truth
となるはずである。映画文法においても基本は古典論理である。二分法により世界は充溢しなければならない。

たとえば、ガストン・ドゥブラット、マリアノ・コーン『ル・コルビュジェの家』。〈黒/白〉で二等分されるフレームが表象する世界を思い浮かべてみる。右が黒として、左が白としてのフレームが呈示された世界。この場合の黒は太陽を遮られた内部であり、白は太陽のあたる外部のことである。つまり《外/内》に二等分された世界。内にハンマーが振られ打音が鳴り響き、と同時に外は振動する。再びハンマーが振られそれが繰り返される。内が崩れるとともに外にも亀裂が入り、やがては内と外は穴で繋がる。黒・白で二等分されたフレームの表象としての世界。ここにあるのは、外部(A)と内部(not A)に二等分されることで充溢する世界である。つまり論理式
(A)or(not A)=truth
の世界である。

ところが本作のフレームは、そうたやすくは(論理学の意味における)トートロジーを呈示してはくれない。女と男の、ふたつの洞窟で二分された世界は古典論理の排中律「(A)or(not A)」ではなく、「(A)or(A’)」であり、そのどれもが内部であり、ここに外部はない。外部への接続を忌避された、あるいは接続することを自己抑制された内部(洞窟)だけの世界。外部を想定しない世界。これを内部と呼ぶことすら憚れる不条理世界である。では、内部だけの二分法を解消するにはどうすればいいのか。それは、外部を呼び込む、つまりハンマーを振って外部と接続することではなく、内部の溶解である。それが唯一の解決法である。

男は寒さを訴える。熱を計ると38.5℃。女は看護師のようで、感染防止用に口にマスク、眼にゴーグル、頭にビニールキャップを被り、男に抗原検査キットを渡す。検査結果は陽性。女は保健所に連絡し、指示を受けるよう男を諭す。だが男は、どうせ連絡したって何もしてくれないからと部屋を出ようとする。女は「わたしは一緒にいるから安心して」とマスク、ゴーグル、ビニールキャップをはずし、男と同一フレーム内に入る。そしてふたりは、「人間になりたい」を歌う。ここで、二分法のフレームは溶解し、単一の内部として充溢した世界が出現し、物語はとりあえずの終了を迎える。「洞窟」の存在は変わらないものの、その意味の転換を生じさせることで、フレームとしての二分化した洞窟を溶解させ、映画冒頭の一つの洞窟(=スタンダードサイズ)への円環構造が示されるのである。

ここで注意すべきなのは、外部への視座を失うとまでは言えないのだが、外部への視座へのとりあえずの留保で物語が終わらせるということである。これは、顔の消失を回避することにもつながる試行であると、わたしたちは見てもいいだろう。そして、いまひとつ言えるのは、ここにあるのは認識の問題ではなく、存在のあらたなあり方の肯定なのだろうと思う。

(追記)
男はノートパソコンによる編集を生業としているのだが、ディスプレー上は、それぞれ違った場所、違った時刻の映像が区画化され複数映し出されている。自分がどこにいるのか、いつの時刻にいるのかさえ分からなくなる世界。そこにあるのは、〈内部/外部〉という対立項すらない世界である。ここに対立項があるとすれば、コロナという世界とディスプレーを生きる世界という二項なのかもしれない。コロナ後の世界は、トートロジー
(A)or(not A)=truth
としては論理式化不可能な世界なのである。

宮崎大祐《ニンゲン三部作》(2)『I'll Be Your Mirror』に続く

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)


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