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【映画評】 宮崎大祐《ニンゲン三部作》 (2) 『I’ll Be Your Mirror』、そして『VIDEOPHOBIA』

本稿は
宮崎大祐《ニンゲン三部作》(1)『Caveman's Elegy』の続編として書かれています。

https://note.com/maas_cinema/n/n4a8b108dcc6b

宮崎大祐『I’ll Be Your Mirror』10分(2021)

本作は宮崎大祐監督の三部構成の作品『ニンゲン三部作』の第二部を成す作品である。

ひとりの男(永山竜弥)、そしてふたりの女優(廣田朋菜、芦那すみれ)が演じるひとりの女。
ルイス・ブニュエル『欲望のあいまいな対象』(1977)を見る思いがする不思議な作品。ブニュエルにおいては冷徹な女(フランス人)と情熱的な女(スペイン人)だったが。

フレームは電車内の右扉に黒のマスクに黒い服装をした女を捉える。左にパーンすると左扉に黒いマスクに同じような服装の女。ふたりとも電車の扉から外を眺めている。続いてビルの情景となり、フレームの右側からマンションのビルに入る女、左側からも同じマンションに入るひとりの女。このふたりの女優は電車内にいた女のようだ。ここまでがシンメトリーな女の像の提示である。

シンメトリーとはタイトル『I’ll Be Your Mirror』の鏡面現象なのだが、5人の監督による神奈川県大和市を舞台にしたオムニバス『MADE IN YAMATO』(2021)宮崎大祐『エミちゃんとクミちゃんの長く平凡な一日』においてエミちゃんが言っていた「右眼で見る世界と左眼で見る世界の違い」、その変奏と理解しても興味深い。“右眼/左眼”とは眼の“反復としての差異”であり、宮崎大祐監督作品の主題系のひとつを成している。つまり、本作は黒いマスクに黒い服装をした鏡面の世界の“ふたりの女“の物語ではないということである。

たとえば、
鏡が頻出するジャック・リヴェット『アウトワン我に触れるな』(1971)を想起してもいいだろう。
『アウトワン』における鏡は複雑な様相を呈するのだが、そのいくつかを拾い出すと、単なる複製装置ではなく、他者の出現、無武備なわたしでありながらも他者のようなわたしでもあり、A→A’への変換の時間の同時性でもある。宮崎大祐監督作品の鏡面現象は、変換A→A’の同時性における差異のことであると言えないだろうか…そう断言するところまでわたしの思考は定着していないけれど、仮説として…。

仮説はさておき、マンション内の一室にひとりの男。男は料理を作りながら従業員と電話の対応をしている。どうやらレストランに保健所の検査が入り、消毒液やおそらく感染抑止用のパーテーション設置について指摘があったらしく、出勤し保健所との対応をするよう要請されているようなのだ。だが、男は断乎として行かないと言い電話を切る。

カメラはマンションの階段を登るひとりの女をいくぶん俯瞰気味に捉え、女が部屋に入ると、同一フレームに階段を登るもうひとりの女。女の帰宅と続いて鏡面現象のようなもうひとりの女の帰宅。

ひとりの男、そしてふたりの女優が演じるひとりの女。冒頭に述べたように、ブニュエル『欲望の曖昧な対象』を想起させる。だが、本作はブニュエル的な欲望の渦ではない。『欲望の曖昧な対象』においては、壮年男の欲望の対象としてのひとりの女をふたりの女優キャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナが演じるのだが、キャロル・ブーケは冷徹で醒めた女としてあり、アンヘラ・モリーナは情熱の女としてあった。いわば、同一物でありながらも別の人格を生きる女としてあった。それに対し、『I’ll Be Your Mirror』におけるふたりの女優が演じる女は、等質な鏡面的世界の人格としてあり、マスクというある種のペルソナを自己意識外(=無意識な強制)に背負わされているのである。自己意識外とは自己の消失と言ってもいいだろか。自己でありながらもマスクによる表情の喪失、つまり他者性としての自己を纏う、時代の霊(自己であり自己でない)とでもいえる現象を生じさせることになる。

本作で興味深い現象があった。黒いマスクと黒い服装の鏡面的世界の人格としての女はひとつのフレーム(もしくは同一の鏡と言ってもいいかもしれない)に同時に現れることはない。この同一フレーム内での黒いマスクの女の非共存は『欲望の曖昧な対象』における女と同じなのだが、興味深いのは、本作においては、家族(=感染の共有)としてマスクを外したふたりの女優演じる女は同一フレームに現れることだ。これは物語把握において仕掛けられた監督の挑発とも思える。それは、男ひとりと女ひとりの食事が男ひとりと女ふたりの食事となるシーンだ。女は同一フレームに存在する。マスクを外し異なる顔である。いわばふたりの女優が固有の人格を顕にすることで同一フレームに現れることが許される世界の出現である。だが、さらに興味深いのは、台詞は片方の女(芦那すみれ)のみであることだ。女がフレームから移動するともうひとりの女(廣田朋菜)も続いて移動し、消える。ひとりの女が現れ水の入ったコップを落とす。男が床を拭くと女が男の頭を押さえつける。そしてひとりの女の(ニーチェ的な)ほくそ笑んだ顔のクローズアップとなる。これは前作『VIDEOPHOBIA』との明確な接続であり、表情を喪失した女の唯一の感情表出でもある。いわばマスクの暴力性から解き放たれた世界としての顔のクローズアップだ。だが、映画は顔の呈示では終わらない。暗転した後、男の手、続いてふたりの女の手がかさなり、「だからわたしに1つの体をください」のシュプレヒコール。手と声で終わるのだ。これは顔の不在としてあるのではなく、隠された顔としてあるということだ。つまり、存在という宮崎大祐監督の世界の呈示で映画は終わる。

本稿には思い違いがあるかもしれない。映画は時間経過とともに記憶の中で変容と消滅を繰り返し、違った映画になっているかもしれない。再見すれば思い違いを修正できるだろうが、変容した映画も映画評だとわたしは思っている。

(補)本作のタイトル『I’ll Be Your Mirror』は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとニコが1966年に発表した楽曲名からの引用なのだろうか。

本稿を書くにあたってのメモを記しておく。
*)マスクというペルソナ→自己の消失→他者性。素顔、表情の喪失
*)ふたりの女優→物語把握において挑発を仕掛ける。これはマスクによる素顔の等質化自体がはらむものでもある。
*)ふたりの女優が演じる→いっさいの説明はないどころか、マスクをした等質であるが故の無表情。物語把握において挑発を仕掛ける。これはマスクによる素顔の等質化自体がはらむものでもある。識別するものがあるとすれば、右側の女、左側の女というしかない。
*)マスクをした女の顔→すべての女が同一に見える。
*)右眼と左眼→大和や厚木に向けるわたしたちの分裂しながらも脳内視神経で統合される眼差しでもあるように思う。

本作は『VIDEOPHOBIA』(2020)のスピンオフ、または変容としてある。
『VIDEOPHOBIA』についても書きたいと思っているのだが、それまでの間、メモを備忘録として記しておく。

*)サイバースペース上での顔の拡散だが、『ニンゲン三部作』ではマスクという顔の不在。
*)ヒロイン・愛のスキャンダラスな動画がネットで拡散され、不気味に続く増殖は彼女の日常を侵食する。愛はサイバースペースの夢魔からの逃亡を試みる。顔の存在→『I’ll Be Your Mirror』はマスクという顔の不在、それでいて『VIDEOPHOBIA』同様、顔の映画。
*)それは重力を失った浮遊する人格なのだが、それは表情を喪失した、名づけ難い浮遊するなにものかなのだが、それでいて、これも名づけ難い他者、たとえば抗しがたい重力と表現すればいいのか、
*)ヒロイン・愛のスキャンダラスな動画がネットで拡散され、不気味に続く増殖は彼女の日常を侵食する。愛はサイバースペースの夢魔からの逃亡を試みる。顔の存在→今回はマスクという顔の不在、それでいて前作同様、顔の映画
*)仮構・霊的・複製・反復の初回性・共時性・錯時性・世界→宮崎大祐監督が追及してきた世界
*)視線の不在、場所の不在
*)憑在論(hantologie)→ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち 負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル』においてhanter((妄想、強迫観念が)(人に)取り憑く)、hantise(妄想、強迫観念)をもとにしたデリダの造語。hantologie はontoligie(存在論)と最初の鼻母音が違うだけである。『VIDEOPHOBIA』に限らず、宮崎大祐監督作品を理解するための重要な概念。
*)人格と非人格との間で、日本人は案外居心地がいいのかもしれない。
*)サイバー空間での増殖、本人であると言う保証はあるのか、コピー、オリジナルはどこにあるのか。ぬいぐるみを着た私。
*)見ることの強度、見られていると言う強度、反比例するのか。見ること、見られているということの交差→ 二曲線の特異点→特異点の解消。
*)サイバー空間での増殖、本人であると言う保証はあるのか、コピー、オリジナルはどこにあるのか。ぬいぐるみを着た私。
*)ドゥルーズ・ガタリ的に言えば、ネット上、つまりわたしという自己からは見えない、触知できない他者から顔を見られている=拡散されている、いわば「拡散装置」が自己の身体へと有機化されるとき、つまり、「拡散装置」が身体の内部に侵入し混ざり合う状態になるとき、身体はそのことに苦痛を感じる抗うことになる。だが、この抗いは「拡散装置」が不可視であるが故に、他者の存在を排除することを不可能にする。廣田が流す鼻血や夜の街を走る行為、そして二階の部屋から夜の街路を見下ろすと、視線の先に顔のない自己の背後の姿。本作の鏡では→コピー元のないコピー、これがマスクによる顔の不在、消失。
*)内部でコントロール不可能な欲望装置として自己増殖している、いわば、欲望の資本主義ともいえる視座を思い描いているのかもしれない。

宮崎大祐監督『遊歩者』FLANEURについての論考です。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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