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【映画評】 森淳一『リトル・フォレスト』 すでに物語はあった

森淳一『リトル・フォレスト夏・秋編』(2014)

「長雨の晴れ間に峠から見下ろすと、小森は水蒸気に沈んで見える。土にたっぷり含まれた水蒸気が激しく蒸発しつづける。小森は盆地の底。山の水蒸気も流れ込む、湿度も高まってゆく。濡れたシャツのようにまとりつく大気。湿度100%近い空気の抵抗感が、ヒレをつけたら泳げそう。」

これは主人公いち子(橋本愛)の冒頭の語り。いち子は盆地特有の湿った大気を素直には受け入れ難いようにも思えるのだが、その声は大気とともに違和感なく里山に溶け込む。この語りは印象的であり、「濡れたシャツのようにまとわりつく大気」のくだりは、里山の美しい映像が不意に物語へと下降する瞬間でもある。だが、物語へと下降するとはいっても、物語ることの性急さを意味しているのではない。性急さどころか、物語は映画の内部にあるのか、それとも外部にあるのか、その輪郭の曖昧さに戸惑いすら覚える。

いち子は小森で育ち、地元の分校を卒業した後、街に出て男と暮らす。だが、街とも男ともしっくりこないいち子は小森に戻り、自給自足のひとり暮らしを始める。話し相手といえば村の老人たち、分校の2年後輩のユウ太(三浦貴大)、女友だちのキッコ(松岡茉優)。
映画はいち子が語る梅雨の情景に始まり秋に終わるのだが、物語の始まりを特定することはできない。いち子の履歴は、いち子の語り、ユウ太やキッコとの時間の断片といえるほどの短い会話から、あたかも大地から上気する水蒸気のように薄く浮かび上がるのであり、その語りは緩やかである。
物語の端緒はフレームの外部にあるともいえるし、それ自体がないともいえる。
たとえば、いち子の母は5年前に家を出たことがいち子の語りとユウ太との会話から分かるのだが、いま、どんな生活しているのかは分からない。
いち子は現在21歳。母(桐島かれん)が失踪した5年前といえば、いち子が分校の1年生の時だろうか。そして父の存在は語られることすら(少なくとも夏・秋編では)ない。

物語は夏、秋の四季系列で流れるのだが、その細分化である14のプロットは最初と最後を除けば、夏・秋の区分を崩さない限り交換可能であり、それは時間(=物語)の不在ともいえる。そしてそれらがたとえ交換されたとしても映画(=不可逆な時間の流れ)には何ら影響を及ぼすことはない。それは、主観ショットの不在とタテ移動の不在(=これは時間の切断によるドラマツルギーでもある)を仕組むことで、交換可能という時間の不連続性、あるいは時間の不在を見せているといえる。
不在なのはこればかりではない。いち子の性も巧妙に回避される。

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