【エッセイ】 岡田利規『部屋に流れる時間の旅』テクストとして読む
『部屋に流れる時間の旅』(新潮2016.4月号に掲載)はKYOTO EXPERIMENT 2016で上演された岡田利規の戯曲。
友人に紹介されて読むことにした。
舞台を観たくもあったのだが、台南にいた時期と重なり、観ることができなかった。
KYOTO EXPERIMENTのウェブには次のように紹介されている。
「前作の『地面と床』では、日本独自に洗練を遂げてきた能楽をも参照しながら、生者と幽霊が行き交う世界が構築されたが、今回はさらに踏み入って、〝死者に対する生者の羨望〟が描かれる。」
以下は、未見の戯曲を読んでの感想である。上演台本としてではなく、テクストとして読む。
チェルフィッチュの公演を見ていれば、違った感想になったかもしれない。
この部屋は他の部屋ではなく決定的にこの部屋なのであり、この部屋と他の部屋とを同一視することはいかなる意味においてもできない。
いまわたしがいるこの部屋にしても、たとえ隣室の部屋が同サイズ、同意匠で、
はたまたベランダから同じ景色が展望できるとしても、この部屋と隣室とは同じだということは疎か、「同じような」部屋だということでさえ、口が裂けても言えない。
それは、それぞれの部屋には固有の時間が流れているのであり、その固有さゆえに、「同じ」とも「同じような」とも言えないのである。
固有の時間とは他と識別する決定的ともいえる時間のことである。
部屋には固有の時間が流れている、と先ほど書きながら、内心ためらいのようなものを感じるわたしがいた。
実のところ、流れているというのは正確ではないのではないか、と思ったのである。時間が流れるのではなく、留まる時間がある、と述べたほうが適切であるような気がしたのだ。
つまり、時間は、固有値として部屋に留まる。
部屋には死者の留まる時間がある。だが、生者は……生者の流れる時間がある。
死者、生者、時間、固有値、留まる、流れる。
死者は生者を思い、生者は未来を思う。
部屋の固有値とは死者の時間のことである。
死者は生者に語りかける。生者はその声が次第に聞こえなくなる。
生者は未来のことを想うのだが、死者もまた未来を想う。
だが、死者にとっての未来とは過去にとどまるという時制において未来を想うということであり、生者の思う未来ではない。
部屋の固有値とは、死者がその部屋と過去に留まりながら未来を想う時制のことである、と言い切ってみる。
だが、生者にとっても、部屋の持つ固有値、つまり死者を随伴することでしか、未来への旅は可能ではない。
そこに、死者に対する生者の羨望が生まれる。
わたしは死者として留まる部屋を有するだろうか。
そのことを想う確かな時間は、いまいる部屋に流れている。
それ以外の時間は、いまいる部屋には流れていない。
(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)