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祖母がくれたたくさんの特別─だから春が好きだった

私が子供の頃、夏休みは大抵海の日の前後から始まり、海の日といえば7月20日だった。
7月20日は特別な日。
祖母の誕生日だ。
今年の誕生日を迎えると祖母は100歳になる。


祖母はいつもニコニコしていて、大きな声でよく喋りよく笑う人だった。
3時間弱の電車を乗り継いで、毎年春休みに入る前のタイミングに遊びに来ていた。
祖母に会えるのが嬉しくて、急いで学校から帰っていたのを思い出す。

祖母は事前に荷物を詰めたみかんの箱を送って、自分は黒いハンドバックを抱えて、その荷物の中からはたくさんの果物やお菓子が出てくるのだ。

「こまの好きなやつ持ってきたよ」

ブルボンのバームロール。
私が小さい頃好きだったらしく、バームロールは毎回祖母の荷物の中に居た。
正直、いつの間にかバームロールが特別好きなものではなくなっていたけど、祖母が私のために用意してくれることが嬉しくて、特別なお菓子になった。


祖母が来た日の夜、私には必ずする儀式があった。
2階の自室から自分の布団を転がり落とすこと。
1階の和室で眠る祖母と一緒に寝るためにせっせと布団を運んだ。
布団を転がしながら降りると和室から祖母の嬉しそうな笑い声が聞こえた。

マシンガントークと大きい笑い声。
祖母のお陰で2ヶ月間、うちはとても賑やかになった。

とにかくよく気が付いて動いて、庭いじりしたり1人で歩いてスーパーに行ったり、少しもじっとしていない人だった。
少し曲がった背中と小さい身体に似合わない程のパワフルさ。
可愛くて元気なおばあちゃんだねと会う人皆が口を揃えた。


いつだったか、私の気遣いが凄いと祖母をえらく感動させたことがあった。
私が鳴らす目覚ましで祖母が起きてしまわないよう、目覚まし時計の上にタオルを置いて煩い音が漏れないようにしていた。

「なかなか思い付くことじゃない。こまは本当に心が優しい子だね。」

何度もその話を嬉しそうにして、会う度に褒めてくれた。
そんな風に具体的に褒められることなんてあまり経験が無くて、特別なことだった。
祖母はいつでも私を肯定して認めてくれる存在だった。


成人式。
私は祖母が母のために選んで仕立てた白地にオレンジメインの振袖をお下がりで着た。
正直ピンクのものだとか、自分のためだけの振袖がある友人が羨ましかったけど、祖母が喜んでくれることが分かっていたから満足だった。
その振袖は大のお気に入りになって、機会がある度に積極的に着た。
今はもう着れないことが寂しいくらい、思い入れのあるものになった。


社会人になって何年か経った頃、移動が体力的に厳しいからと祖母が遊びに来れなくなった。
その後は年に何回か家族で会いに行って、お気に入りのご飯屋さんでご飯を一緒に食べるのが恒例になっていた。
祖母はご飯もたくさん食べる。そして相変わらず大きな声でよく喋った。


結婚式。
どうしても祖母にドレス姿を見てほしかったけど、叶わなかった。
会えない代わりに手紙を書いた。
祖母に会える季節がどんなに待ち遠しかったか。一緒に過ごす時間が特別だったこと。

叔父が預かってきてくれた祖母からのご祝儀の中に短い手紙が入っていた。
「こま 幸せにね。おばあちゃんより」


遠く県外に嫁いだため、結婚後は祖母に会いに行く機会がぐっと減ってしまった。
コロナが落ち着いて久しぶりに会いにいったとき、「こま」じゃなくて「こまちちゃん」と私を呼ぶ祖母は、どうやら私が結婚して遠く県外にいることを忘れているみたいだった。
あんなにおしゃべりだったのに、言葉が出てこない様子で、口数もとても少なくなっていた。
その代わりに私を見て「可愛いね。顔がふっくらして可愛いね。」と何度も嬉しそうに言った。




転んで歩くことが難しくなった祖母は昨年施設に入った。
父と母と私の3人で会いに行くと、父のことしか分からないみたいだった。
いつもの笑顔も無く、少し落ち着かない様子でお気に入りらしいミルクティーをずっと飲んでいた。

「お父さんのことしか分からなかったの、ちょっとショックだったな」
施設からの帰り道、母がぽつりと言った。
私も、あの祖母が私のことを忘れるなんて思ってもみなかった。
母の方がよっぽど悲しいだろうと思って、私は何も言えなかった。


「これだけ元気で口が達者だったらボケないね」
父も母も昔からそんな風に祖母のことを言っていた。


日によって調子の浮き沈みがあるらしく、少し前に母が会いに行くと、元気な様子で母のことも分かったらしい。


次会ったときには、私のことを思い出してくれるだろうか。

例え思い出してもらえなくても、代わりにずっと忘れないでいたい。

春が特別だったこと。
たくさんの特別をくれたこと。

こまち

応援を励みに努めてまいります。