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小説「ファミリイ」(♯40)

 その後も先輩を通じて何度か不本意に彼女と出くわしてしまうことはあったが、
挨拶程度に留まり、疎遠になっていった。

  フェイスブックは共通の友人がいたので、それでも彼女の近況は逐一、僕の目に入ってきた。美希は僕を無碍にしてから、僕と同じような脚本家を仕事にしている人間と交際を始め、時期は正確には知らないが四年ほど前に入籍をしたらしかった。僕は三年前に彼女が披露宴を開いている様子をインスタグラムで動画として上がっていたのを見て、結婚の事実を知った。打ちひしがれたが、どこかで「この結婚は長く続かないのでは」という予感もしていた。羨望と妬みからそう思っていたわけではない。嫉妬から不幸を望む気持ちも勿論あったが、美希の結婚した相手が、いかがわしさを感じたからだ。

 その結婚相手、美希は彼を〝ゆうくん〟と言っていたが、彼は脚本家とは名ばかりで、その経歴も虚飾に満ちているように思われた。アメリカの有名大学を出たようなことを自身のフェイスブックに記載していたが、彼の友人欄に外国人は一人もいなかった。海外にいたことは事実らしいが自身の主張するような有名大学ではなく、日本の大学の系列校だったようだ。英語も日本人でも気づくようなスペルミスを頻繁に起こしていて、とても英語力があるようには感じられなかった。それでも脚本家の仕事さえ堅実であればこの業界ではなんの問題もないのだが、脚本業に関してもまともに世に出たものは一本の短編ドラマくらいで、それ以外の実績は不明だった。実は一度彼と僕は直接会話をしたことがあるのだが、いかにも稼いでいる口振りだった。

 危うく僕も信じかけたが、その後の様子を長年追っていくと脚本業ではまともに収入を得られていないようだ。ただコミュニケーション力は僕より上で、自主映画を美希と、彼女の仲間とともに何本か監督していたようであり、一人でしか仕事ができない僕は羨ましくも感じたのは確かだ。だが彼は、ツイッターで既婚の身であるにもかかわらず無名な女性アイドルたちが上げた写真に「いいね!」を頻繁に押していたりなど、その行動が倫理に外れているというより、その行動に薄気味の悪さを感じた。外見もまた、小太りで服装も野暮ったく、外見的な魅力は全くない。

 それだけならまだ性的な魅力には欠けるが代わりに誠実な男として捉えられるものだが、ゆうくんは違った。斜視がひどく、互いの目は明後日の方向を向き、瞳が大きいから異様にそれが目立ち、この人物の信用の置けなさを醸し出していた。別れたということは、初対面のときに僕が感じたこの違和感はやはり当たっていたようだ。離婚したのは昨年のことのようなので、美希はまだ離婚仕立てだ。いま、どこにいるのだろうか? 僕ではなくゆうくんを選んだその選択に後悔をしてはいないだろうか? もしそう思っていてくれるならそれは嬉しいが、その可能性は低いだろう。本当に僕を思っていくれるなら、彼女はSNSをほとんど使わず、放置状態にしているが、わざわざ使用してまで僕と接触を試みるはずだ。

 それがないということは、僕は期待を抱かない方がいいのだ。それに、いま彼女が深い悲しみの境涯にあるとして、時の経過とともに前を向けるようになり、そこで僕を欲して連絡をしてきたところで、彼女と今度は上手くいくとは僕は思えない。

 僕が美希と接近していたころから、美希と僕との間には、踏み越えた瞬間に政治や言語体制が全く異なる国境線よりも隔たりの深い、相互理解など絶対不可能な太い一本線が見えていた。多くの隣国関係も表面上は仲良く見えるが、互いの国民が腹の内で、互いを蔑視こそしないが、「彼らとわかりあうことはない」と思っている。僕と美希もそれと同じだった。使用する言語は同じでも感性も、人生観も、似ているようで本質的な部分では異なっている。婚姻を結び、生涯彼女と一緒に暮らしていくなんて非現実的なことである。美希はもう三十六歳だ。演技の専門学校を出ただけであとは夜の世界でのアルバイト経験しかない、何も持たざる女である彼女は、役者の道はおろか、弱肉強食の世界の東京で生きていくことすら難しい。実家の三重へと帰り、競争から一歩引いて穏やかに生きるなり、まだ余っている地元の男と結婚するなりした方が良い。それが、彼女がこれからの人生行路で幸せに生きていける方法なんだ。僕は、美希とは『ファミリイ』にはなれない。

 昨日、パンデミックによる緊急事態宣言は一ヶ月、期間を延長する見込みであると発表された。これによりテレビ業界の停滞もあと一ヶ月以上続くことになる。僕の経済状態も、再び悪化していくのだろうか。

23.社会人5年目

 七ヶ月ぶりに再開した東京での生活は、田町の築年数十年弱・十三階建のデザイナーズマンションから始まった。十一階の1Kが新居で、家賃は、このエリアからすれば安く、共益費にはインターネット代も込みで諸々合わせて九万三千円だった。当時の報酬面を考えれば支払いには困らず、お金もしっかり貯めていける見込みもあった。

 老いたりょうまの嗚咽が胸にしんしんと鳴り響きながら、しかしどうすることもできないままに始まった新生活だが、新居は僕が所属していた芝公園の放送作家事務所や、テレビ局・制作会社からも近く、渋谷時代より利便性に優れていたのもあり、快適かつ順調に滑り出した。

 しかし、引越してから一週間ほど経ったときに届いたあるメールが、僕の不快を最高度にまで高めた。引越した翌日、僕は父から、それまで使っていた一階の部屋をどうすればいいかという内容のメールがきていた。使っていた十畳の部屋を整理していいのか否かということだった。僕は引越し直後でさまざまな手続きをやらねばならず、そんな些細なことに応える暇などなかった。

 引っ越してから一週間経った夜、再び父からメールがきた。

「部屋は片付けていいの!?どうなの! 下に移りたいんだからはやく答えなさい!」

 この傲慢な態度が僕に火をつけた。僕は、届いた瞬間にすかさず、

「なんでそんな乱暴な言い方すんだよ! まだやっていけるかどうかわからないんだから片付けるな!」

 と打ち返した。僕の攻撃は、この一言では終われなかった。「下に移りたい」という一言に、僕は両親が僕の仕事の金銭事情を全く理解していないことがわかったからだった。

 そもそも両親は、僕が大学院時代に、進路として放送作家の道を選んだことに対して、反対こそ直接言葉にはしてこなかったものの、訝しく思っていたのは明白だった。放送作家業はそもそもがあらゆる作家の中で一番低劣な、胡散臭い職業だが、特に母の抱いたその感覚は異常なほどだった。有名企業くらいしか名前の知らない母は、世の中には会社員しか存在しないと思っているのか、僕の就いた仕事が正規雇用ではないことを、放送作家という仕事だということを何度説明しても理解しなかった。理解しようとしないのではなく、理解ができないようだった。

 この職に就いて一年目の十二月、僕はそのころは返済が始まった奨学金を支払る経済力がなく、一時的に立て替えてもらっていたのだが、母が、僕が寝ていた十畳の部屋に降りてきて、今月はボーナスがあるから支払えるはずだ、と言ってきた。

「なんで何度言ってもわからないんだよ。入るお金も月によって全然違うし、ボーナスなんて無いの」

すると母は、

「なんでそんな仕事に就くのよ!」

 と吐き捨てるように言い放ち、去っていった。結構な言い合いだったので、さすがにこれで母は理解したものだと思っていた。父も、会社の在籍証明を求めてきたことで僕が正社員になったものと思っていた。息子の職業への正確な理解は、健全な親なら欠かすべからざることだ。しかし、この両親、特に母親は、僕の仕事をまるで何か犯罪紛いのようなことをしているとでも思っているかような態度で見てきた。父は、

「母さんがもう帰ってこないなら下に移りたいって言ってきたんだよ」

とまた責任転嫁をしてきたが、僕は、思えば高校時代に演劇を始めてからずっと、母の僕の行動への無理解にもかなり立腹していたので、この際両方を論破することにした。

「フリーランスなんだから給料も月で全然違うって何十回と説明してきただろ! なんでいつまでもわからないんだよ。別に犯罪みたいなことしてるわけじゃないだろうが!」
「頑張ってるんでしょ。わかったよはいはい」
「逃げるんじゃねえよ。高校で演劇始めた→反対。大学で映画を撮り始めた→反対 放送作家→反対って全部反対してきてるじゃねーか! 大学時代に就活したとき、何にもわからないくせに適当に『映像は諦めなさい』って言いやがって! この野郎! どんだけ傷ついたかわかってんのか」
「安定した仕事に就いて幸せになってほしいから反対してきたんだよ。今が良いならそれでいいんでしょ。はいはい」
「そういう態度がムカつくんだよ、いいい加減にしやがれ! なんで一度たりとも応援してくれないんだよ。謝れ! 大学のときに『映像をやめなさい』とか抜かしてきたことも含めて、僕のやることなすこと全部反対してきたことを謝れ」
「応援しているよ。『映像をやめなさい』なんて言ったっけ?」
「なんで忘れてんだよ、いい加減にしろよ。どれだけ傷ついたと思ってんだよ! 謝れ!」
「お前のためを思って言ったんだが……傷ついていたなら謝るよ。ごめんなさい」
「まだ母さんが謝ってない! 今までやることなすこと否定してきたこと全部、謝れ!」

この返信に至るまで、メールのやりとりは二十三時にまで及んでいて、普段、両親はもう眠っている時刻だが、母からすぐさまメールが返ってきた。本文には、

「ちゃんと生活を送れているのだから応援しています。今までずっと否定してきてごめんなさい」

と書いてあった。

 このメールをもって僕は攻撃を止めた。なぜだか気持ちは晴れず、より自分が一人の大人として情けなく感じた。古びた砦を一方的に攻め立てて主たちを屈服させたところで、そこにどんな意味があるというのか。僕は自分への怒りが抑えられなくなり、部屋を飛び出し、夜中の港区を、煌々と紅く煌めく東京タワーに向かって走りに行った。

 走っている最中も、青い波が寄せてきて引いたら次は緑色の波が寄せてくるように、自分への苛立ちと両親への苛立ちが交互に込み上げてきた。この承認し難い感情の揺れは、その後も真夜中にたびたび僕を襲い、数ヶ月続いた。夜中に、昼とは打って変わって閑散とした港区の、広大な第一京浜沿いのオフィス街を、その静けさから幽玄さを醸し出すビル群の合間を新橋方面へと駆け抜けていくと、ステップを踏むごとに親へのやるせない想いがマグマのように沸々と沸き上がり、僕の胸から喉元を熱くする。新橋駅で折り返して家に帰り着くころには収まっているが、強めのシャワーを浴びても気分は優れない。上がると、髪も乾かさず僕はそのままベッドに横になる。気づけば朝を迎えている。
 
 こんなサイクルが幾日もあるなかで心の活火山は活動を弱め、暑い夏を迎えるころには、休火山へと変わっていった。怒りが収まった僕の元に代わりに訪れたのは、堪えきれようのない孤独だった。盛夏が終わり、秋を迎え、都会に馴染んでいく一方で、りょうまの鳴き声が僕の耳元に聞こえるようになった。港区は、地元と暮らしている人々とは生活感が全く異なっている。平均年収は倍以上で、街を歩く女性たちは、見ただけで教養が高いことがわかり、富の象徴をひけらかすかのように小型犬を連れて歩いている。その中にはりょうまと同じパピヨン犬も何頭も混ざっていた。りょうまに似た愛玩犬を見るたびに、いや、種別を問わず第一京浜のコンクリートやタイル張りの硬い地面の上を、きっと足には相当の負担がかかっているのに文句も表さずに懸命に歩く小さな犬を見たあと大通りに目をやると、りょうまの顔が両側に壁のようにビルディングが建ち並ぶその大通りの間に、青空をバックに大きく浮かび上がった。

 りょうまに逢いたい。おもいっきり彼を抱きしめてやりたい。りょうまは夢にも何回も現れた。彼は夢の中で僕をずっと、寂しそうな潤んだ瞳で見つめてくる。

読んで頂き誠に有り難う御座います! 虐げられ、孤独に苦しむ皆様が少しでも救われればと思い、物語にその想いを込めております。よければ皆様の媒体でご紹介ください。