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泳ぐ鯉

池の中を自由に泳いでいる鯉を見ると、小学生のころを思い出す。
大人になっても池といえば鯉を連想してしまう。
日本で育てば身近な存在になっているのが泳ぐ鯉だ。


小学校には子供にとっては大きな池があった。
そこは子供たちにとって最高の遊び場のひとつであった。
池のまわりを走ったり、飛び石の上を渡ったり、かなり楽しむことができる。

そんな友人たちを横目に池の表面に立つ波を観察するのが好きだった。
風が吹くと細かい波が立つ。
少し暑い日などは、時おり吹く涼しい風を肌で感じるのと合わせて視覚的にも涼しさを感じられる。
波を見るということは風の形を見ることなんだ、という幻想的観察心を抱いたことも覚えている。

波を起こすものは風だけではない。生物が起こす波もある。
風が起こす波は池全体にほぼ均一に影響するのに対し、生物が起こす波は局所的なものである。
アメンボは水面を滑走する度に小さな波紋を残す。アメンボの動きよりも波紋の動きそれを見ているのがおもしろい。

ゆったりと泳ぐ鯉は時折水面に顔を出して大きな波紋をつくる。
池の中は比較的安全で警戒芯が薄いからなのか、あまり早く泳ぐ鯉をみたことがないように思う。
気まぐれさと一種の怠さを伴って泳ぐ、その余裕がいいのだ。

反対に警戒心が強い鯉はめったに姿を現さないのかもしれない。
エサをやるような人間がいないところでは、やはり鯉も人前に出てこないのではないだろうか。
そういう少し薄暗くて自然に近い池で鯉の姿を目にすると一種の興奮作用が働く。
「こんなところにもいるのか」と感心するし、なんだか寂しいような気もするし、でも見つけられたことを嬉しく思うのである。

だから、日本庭園に鯉がいると安心する。
あらゆる池を覗く理由のひとつに、鯉がいないか確かめるというのがある。
見つけると決まって「鯉だ」と何か珍しいものを見つけたみたいに一緒にいる人に報告する。
池に鯉がいるのはけっこう当たり前の事なのだが、なんだか誰よりも先に見つけてやろうと思いながら、柄にもなく興奮してしまう。

鯉に自分でエサをあげることはもうほとんどない。
むしろ他人がエサをやっている姿をみるのが好きである。
とくに子供なんかがエサをばら撒いて鯉と遊んでいるのをみると、自身の小さかったころを思い出すのもあり、ほっこりと胸が暖かくなる。

鯉は一定の距離をとって眺めているのがやはり一番いいように思われる。

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