見出し画像

毎日投稿は、すごい

まえにこんな記事を書いた。

今日はふたたび「日常を切り取る」ことについてかんがえてみたい。

−−−

僕は、日常でカメラをまわしてそれを繋ぎあわせた1週間の記録、みたいないわゆるvlogビデオブログの略よばれる動画をYouTubeでよく観る。

その人たちはiPhoneなのかGoProのような小型機なのかは知らないが、つねにその手にカメラを忍ばせておき、気がついたこと、見せたいものがあったときにすかさずカメラを持ってしゃべりだす。

日常を切り取る、ということが目的なので動画のために派手なことをするわけではないし、特別おもしろい出来事が起こるわけでもない。

日頃から「いかにすばやく、楽に」撮るかが大事なため、一眼レフなどの画質お化けマシンは重いだけで負担にしかならない。だからiPhoneなどを使っていることがおおい。

−−−

ところで。vlogにしてもnoteにしても、考える、という行為は支持される作品づくりには欠かせない。

「え、vlogは日常を切り取るだけだから考えなくても誰にでもできる。」

そう思いそうだけどそんなことは絶対にない。注目される動画にはそれなりの理由があるはずだし、伸ばすための分析が必要な時期はきっとくる。

もちろん書くという行為が考えなきゃ続けられないことはあらためてこのnoteで言うまでもない。僕たち書き手も日頃から頭を使って書いている。

日常を五感でうけいれて、その光る材料を何度も咀嚼する。過去の経験や知識と混ぜ合わせることで「文章」になる。

いや、動画もnoteもおんなじだなって。

だから、結局。どっちが楽とか、お金になるとかの話ではなく。

どっちが自分に向いているか、要はどっちが「楽しいか」になるんだとおもう。

人生は山あり谷あり、なんていうけれど。できるなら「山」ばかりを積み上げていきたい。それを苦じゃない方法で切り取っていきたい。

だから僕は、noteを選んだ。そこにいっさいの後悔はない。

−−−

それにしても。

「毎日note」はすごい。すごすぎる。
(たまには自分をねぎらいたい)

僕は「今日なんかおもしろいことあった?」と聞かれたら、口にお餅をつっこまれたようにググッと言葉が喉元で詰まってしまう。

でも、noteなら毎日書ける。昨日も書いたし今日も書いてるしたぶん明日も書けるだろう。
(おもしろいかは別として)

何度も推敲できるから、ひとりスマホをとおして心穏やかに自分と向きあえるから、そこにはさまざまな要因があるとはおもう。

でも、それでいいんじゃないかと。

弱みを隠して生きていくのは「心地よく生きる術」だとおもうのだ。

−−−

以前書いたこの記事に出てくる、美容師のSさん。

僕はいつも開店時刻である朝10時に予約を入れる。それでいつも大体9時55分ごろに到着するのだが、おどろくなかれSさんはまだ来ない。

9時58分、いや、59分に自転車で颯爽と出勤してくる。

この店はSさんひとりでやっているので、僕はいつも鍵のかかった扉のまえで4分ほど待ちぼうけをくらう。

最初は、ひとりしかいない店員がお客さんの予約時刻の1分前にやってくる店ってどうなん、と不信でならなかった。

でも、ふと考えると。

それでいいんじゃないかと。

むしろそうやって弱みを全面的に出してくれる人のほうが僕はかわいげがあって好きかもしれない。

まずは自分の弱みをすなおに受け入れる。そのうえで好きなことや得意なことを楽しんでいると、他人の弱みが気にならなくなる。心がすこし穏やかになる。

毎日書くことで、僕はすこしずつだけど大人になっているのかもしれない。

僕の記事をここまでお読み頂きありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 頂いたご支援は、自己研鑽や今後の記事執筆のために使わせていただきます。