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あのさ

「明日の夜空いてる?ちょっと話したいことがあって」
1週間ぶりのラインが届いた。十中八九別れ話だろうと思ったけれど、そこには触れずに、「空いてる」とだけ短く返した。「じゃあドライブしよう。仕事終わりだから21時頃くらいになると思う」とすぐに返信が来た。私は「了解」と返してそのままベッドに横になった。仰向けになりながら適当にネットニュースを読んでみたけれど、文章が全然頭に入ってこない。いつその時が来てもいいように心の準備はしてきたつもりだけれど、いざとなればやっぱり動揺してしまうんだなと思った。大学生の頃、親知らずを抜いた時の事を思い出した。昔から歯医者が嫌いで、2カ月くらい痛みを放置していると、ついにどうにも我慢が出来なくなった。覚悟を決めて歯医者に行くと、5日後に抜歯をすることになった。抜歯の前日までは何事も無かったけれど、前日になると急に怖くなってきて、親知らずを抜いた友達に電話をかけまくって話を聞いたら余計に怖くなってきて眠れなくなった。当日、びくびくしながら歯医者に行って、半泣きで抜歯に臨んだけれど、思っていたよりも痛みは少なくて拍子抜けした。痛みよりもむしろ、術後の脹れがひどくて大変だった。たぶん、今回も本当に辛いのは後なんだろうな。そんなことを考えながら、ツイッターにアップしていた2人の写真を5年前まで遡って1つ1つ削除していった。

「マンション前、着いた」とラインが入り、私は部屋を出た。マンション前に停まった白のプリウスを見て、「乗るのもこれで最後か」と思った。付き合い始めの頃は変なピンク色のシエンタに乗っていて、周りの友達からはラブホテルピンクという仇名を付けられていたことを思い出した。助手席のドアを開けると、「おう、久しぶり」いつも通りを装った笑顔で彼は言った。4カ月近く放置されて、絶対に愛想なんて見せてやるものかと思っていたけれど、反射的に笑顔で「久しぶり」と答えてしまった。やっぱり、心の中には会えて嬉しいと思ってしまっている自分がいるらしい。覚悟を決めたもうひとりの私が、心の中でそいつの頬をひっぱたいた。「じゃあ行こうか」と彼は車を走らせた。少しの間の沈黙。彼も別れ話だと私が分かっていることを察しているから、切り出し方に迷っているのだろう。「最近どう?仕事」と彼が口を開いた。本題に入る前にどうでもいい話で場を温めようとしていることが手に取るように分かった。どうせ盛り上がらない話になることは間違いないのだから、どうでもいい話をしてやろう。私のせめてもの反撃だ。「普通だよ。いつも通り。いつも通り給料は安いし、仕事はしんどい。そうだ、いつも話してたあのハゲのキモイ部長いるでしょ。こないだも資料に半角と全角があって気持ち悪いとか、メイリオが嫌いだからフォントを変えろだの、ネイルに付けたビーズが変だとかいろいろ言ってきてさ、もう本当に無理になったの。だからさ、私、頭の中で部長の顔にモザイクをかけるようにしたの。気持ちの問題なんだけど、頭の中でモザイクをかけるように心がけたらなんとなく耐えられるようになったんだよね。でも、こないだ部長と話してたら、モザイクを意識しすぎて、部長の顔がだんだん男性器に見えてきて、気持ち悪くなってトイレで吐いちゃった。お昼ご飯食べた後すぐだったからさ」私がひたすら話し続けると、「何の話だよ」と彼は苦笑いした。彼には、私が何事もないように強がっている滑稽な女に見えているかもしれないと思って少し恥ずかしくなった。

大通りに出ると、「ここのライフ無くなったの?」と彼が驚いて言った。「3カ月前にね」と私は皮肉交じりに答える。「こんなに広かったんだね」彼はうっすらと目を細めて言った。大型スーパーのライフが跡形もなくなるような期間、2人は会っていないのだとしみじみ思った。「あそこのパチンコ屋も?」「あれは先月。ちなみに駅の反対側のパチンコ屋も潰れたよ」「そっか、世知辛いね」そんな話をしながら大通りを走ると、よく2人で行ったびっくりドンキーや温泉が目に入る。彼の顔を見ると、懐かしんでいるように感じた。彼にとっては、もう過去になってしまったのだろう。私はこの道を通る度に、色んなことを思い出して悲しくなるのだろうか。この道を通る時は頭の中でモザイクをかけよう。いや、そんな事をしたら、モザイクだらけの卑猥な街になりそうだと思って笑いそうになるのを堪えた。数分の沈黙があって、気まずい空気が流れる。信号で停車したタイミングで彼が、「あのさ」と口を開いた。


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