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【教育】打てば響く人vs響かない人。大人に教えることvs子どもに教えること

打てば響く人、響かない人ってなんだ?
大人に教えるのと子どもに教えるのの違いってなんだ?そんな話。



打っても響かないパターン①努力に結果が伴わない

私がアメリカの大学で日本語教師として働いていた時の話。

初級クラスのある学生は、どれだけ熱心に教えても(そして本人が努力していても)適切な日本語の単語を1つもまともに覚えることが出来なかった。そして、毎回の授業の課題であるダイアログの暗唱を一度も出来なかった。

毎回オフィスアワーの度に私のもとに来て、本人のやる気と努力を見せてはくれた。何度も一緒に練習をしたし、文法などの解説もしたし、覚え方のコツも教えた。それでも課題のフレーズの1単語も正確に覚えられず、授業ではかなりの時間を彼女でロスしてしまった。

結果、彼女の成績をFにした。心苦しくはあったけど、どんなに頑張っていても到底次のクラスのレベルにはついていけないと思ったし、授業で彼女が回答に詰まる(でも本人はなんとか答えようとして、自分のターンを保持し続ける)ことで、ほかの生徒たちの学びの時間も奪ってしまった。

授業のレベルをどこに合わせるかというのはとても難しい問題で、ベテランの先生でも調整が難しかったりする。でも、基本としてはクラスの平均レベルプラスαくらい。つまりクラス全体の平均よりもちょっと上くらい。それ以下だと、クラスとしてはダレてしまう。

なので、努力をしていても結果がどうしても伴わない生徒は心を鬼にしても、切り捨てることが最善の選択になったりする。

打っても響かないパターン②本人の意欲がない

前述の生徒は本人はとてもやる気もあって努力もしてたけど、逆にやる気や気力がなく、こちらの指示のスルーをしたりしてやってくれないパターンもある。サボタージュ、というか。

その理由として、「どうせやっても無駄」「新しいことをするのが面倒」「確実なことしかやりたくない」などがある。もちろん私のことを懐疑的に見ていたり嫌いなパターンもあるとは思うけど。

これは、昔指導した会社の後輩の話。

ある業務の効率化の提案をしたところ、既存の枠やり方に慣れ親しんでいるからと新しい方法を取り入れなかった。

また別の時は、先方(かなりの曲者なひと)とのコミュニケーションをより円滑にするためにこちら側が出来ることをいくつか提案してやってみてほしいとお願いした。すると「あの人はこちらから何を働きかけてもどうせ変わらないし改善しない」と取り合ってくれない。

改善案を試してみたほうが結果的には本人にとってもメリットになる可能性も高いのに、目先のコストを取りたくないという短絡的な思考で拒否する。確かに本人の言うように効果はないかもしれない。けれどそれはやってみないと結果が分からない。(実際私の提案はそこまで面倒なことではなかったし、私の上司とも相談してそれがベストと判断したものだった)

そういう人に対しては、だんだんと提案しようと言う気持ちにならなくなってくる。助言する気力も少しずつ減ってきて、その結果本人はさらに固執するし孤立する。

結局その後輩は程なくして会社に文句を言って転職していった。

大人に教えるのは難しい

最初の例は大学生ではあったけど、どちらも大人といえる年齢だった。一度大人になって、本人のキャパシティやマインドセットが確立してしまうと、こういう学びの根本的な部分は変えていくのが難しいんだなと実感した。

最初の例の学生の場合、私が教えてたのがもっと子どもの頃の本人だったら違っていたのかもしれないなと思ったりもした。学習能力という点で先天的な部分も有るかもしれないけれど、後天的な部分も多分あるんじゃないかなと思う。

そういう意味で、子どものうちから学びに対するキャパシティを広げていくのはとっても大事だなと思った。

パターン②の後輩にしても、先天的な性格に加えて、生まれてきてから今までの経験の中で価値観や考え方などが確立していったんだろうなと思う。

子どもに教えるのは楽しいけど責任重大でもある

一方で、今1歳児を育てていて、新しいことを学ぶ意欲と好奇心、そしてキャパシティはほんとうに無限大だなと感じる。

人間の赤ちゃんって、ほんとうに何一つ自分では出来ない状態で生まれてきて、そこから驚異のスピードでたくさんの事を学び、成長していく。

成長することは人間にとっては当たり前の欲求で、今出来ないことを失敗するのは全然ダメなことじゃないということを教えてくれる。そして、何かが出来るようになることは、才能とか特別なギフトとかではなくて(学びが早いとか特性はもちろんあるとはいえ)、ただ単純に「出来るまでやり続けたかどうか」でしかないんだなと感じる。

たとえば寝返りだって、途中で赤ちゃんが「自分には才能がないんだ」とか思ってたら途中で諦めてしまうだろう。でも実際はそんな事はないし、遅かれ早かれどんな赤ちゃんでもやり続けることで当たり前に出来るようになる。先天的な事情でもない限り。

「諦める」ということは、多分後天的に人間が学んでいってしまうことなんだろうなと思う。

子どもに教えるということ

それから、幼少期からの周りの人たちからの働きかけも本当に大事だなと思う。

赤ちゃんからガツガツ早期教育をしろ、という意味では決してないんだけど、その時々に赤ちゃんや子どもに必要な働きかけというものはあると思う。

たくさん話しかけることであったり、スキンシップを取ることであったり、新しい経験を提供することであったり。

ほとんどの場合は自然に行われているような事がとっても大切で、それが足りなかった場合には後々の学びのキャパシティに影響を与えてしまうんだなと感じる。実際にそういう研究もたくさんある。

たとえば、こちらの本で書いてあるような、経済的格差による働きかけの過不足で、子どもの到達度が変わるというもの。

曰く、アメリカでは経済的に恵まれない家族のもとに生まれた子どもは幼少期からの言葉や知識などのインプット(身近な大人からの働きかけ)が少ないせいで、学校に上がったあとのパフォーマンス等にも影響を及ぼしてしまうという。

日本的な視点で見るとあんまり要領を得ない部分もあるんだけど、アメリカの教育の現場に数年だけでもいた身からすると、結構実感をもって思うところが結構ある。

(大学生含め)大人達に教えてきたり指導してきた経験から、大人に対しては本人を根本から変えるような大きな変化を与えるのは難しいなと感じる。そして、それと対極的に大きな影響を与えてるなと感じるのが小さな子どもと相対する時。

言葉も態度も考え方も全部全部、どんどん吸収していく。打てば響く。響きまくる。だからとても面白い。でも、時々こちらが意図してない無意識の部分まで吸収するのでこちらとしては気も抜けない。責任も重大。

大人に教えるということ

大人に教える場合は、ある程度割り切りと諦めも必要だなと思う。最近になって特にそう思うようになった。かつての私はナイーブだったので、「人は打てば響く。響かないのはこちらの働きかけの仕方のせい」と思ってしまっていた。

でもよくよく考えるとこの考え方はおこがましくもある。だって本人が長い月日をかけて様々な経験の中から培ってきた能力や価値観などを、ぽっと出の自分のような人間が少し関わり方・教え方を変えただけですっかり変わってしまうと思ってるんだから。

私にとって「打っても響かない」大人はたしかに、やりづらい。でも本人も多分私にとって同じようなやりづらさをどこかしらで感じているのだと思う。大人は良くも悪くも環境をある程度は自分で選べるので、そこは適度な距離を置くなどして対処するのが一番お互いにとっては良いことなのかなと思う。

理想論的ではあるけれど、人間誰しも適材適所だと思ってる。「能力」「意欲」というのもそもそも現代社会のものさしに合わせて判断されているものだから、必ずしも今の私達の思う良し悪しが全てではないのだと思うし。

子どもに対するアプローチとはまた違うよなぁ、と思ったりする。

ところで、大人に対する「責任」は誰が追っているんだろうね?かつて子どもだった頃に関わった大人たちなのだろうか?それとも本人なのだろうか?

そんなこんなで今日の話は一旦おしまい。



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