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私は私を取り戻します。

 長かった。

 性別に違和感を覚えて40年。
 やっと訣別できると分かったら、気持ちが落ち着かなくなってきた。

●幼少期の違和感

 3歳半頃、弟が生まれた時、母や姉のような感覚で初対面したのを覚えてる。いい天気だった。私の将来の夢はお母さんだった。

 幼稚園に入ると、お遊戯の時間は男女に分けられた。トイレも男女別。どうして私は女の子の仲間に入れてもらえないのか。男の子の輪にも女の子の輪にも入れてもらえず、いつも少数の友達と遊んでいた。多分絵を描くくらいだった。卒園アルバムの将来の夢には「おまわりさん」と模範解答してみせた。

 小学校に上がると、もうなぜは消えていた。ずっと我慢していた。
 小学校3年の時、弟と同部屋になり、かつスポーツ刈りにさせられた。長いさらさらの髪が良かったのに。本当に嫌だった。

●死生観と自分の存在意義

 小学校中学年の頃は幽霊が怖くて、高学年になるとそれが人の生死に関する関心に移っていった。ひいおばあちゃんの他界、いとこの誕生、もし女に生まれていたら「ふたば」と名付けられていたということ、そして『火の鳥』や『死神くん』で培った死生観…。
 これらがあいまって小学校6年の頃には「自分には存在価値がない」と思い始めた。自殺を本気で考え出した。

 中学校は入試で入った。が、最後はギリギリ抽選で入ったため、入試をパスした人達や小学校からエスカレーターで上がってきた人達に対するコンプレックスで一杯だった。もうすっかり死にたかった。

 高校にも一浪して、しかも滑り止めのほうに入り、いよいよ真面目に人生やる気がなくなっていた。何度か自殺未遂したが、この頃『完全自殺マニュアル』が出版され、自分の中で自殺がチープ化してしまった。
 学校には殆ど行かず、行ったふりして単位が足らず、補習とかで何とか進学、卒業できたが、自分にはもう死すら生ぬるい、生きること自体が罰だと思っていた。
 妄想の中でだけ、私は活き活きと生きることができた。絵を描くことは好きだったが、これもまたコンプレックスがあって隠していた。

●自分いじめ、延長戦

 大学は、高校からのエスカレーターに近い入学の仕方をした。県外で受験した大学は全て落ちた。
 アルバイトも、自分が絶対選ばない接客の話が親から舞い込み、何事も経験だと自分をいじめるために入門した。夜の仕事だから、学業には大いに影響が出た。大学には結局5年通ったが、卒業後半年もそこでアルバイトしていた。
 だけど、この時期は意外と充実していた。アルバイト代は丸々おこづかいにしたから、海外旅行も行ったし、好きな本を読み、好きなゲームでひたすら遊び、不健康な食事も覚えた。大学最初の1年だけで10kg太っていた。

 卒業後もアルバイトをしていたのは、就職できなかったからだ。ただでさえ2年人から遅れていて、しかも就職氷河期のロストジェネレーション。真面目に勉強していなかったため学もなければ資格もない。派遣は一度蹴れば二度と声が掛からない(今となっては派遣に絡め取られなくて良かったが)。
 そんな折、またも親から仕事の話が舞い込み、そちらへ就職。アルバイトよりも賃金が低く、扱いも悪かった。
 それでも次期社長を支える役目を仰せつかり、懸命に働いた。これも自分いじめの一環だったかもしれない。自己肯定感が上がることはなく、「いつか這い上がってやる」だけがモチベーションだった。

●手放すと得られる

 恋愛へのコンプレックスもあった。何しろここまで女性と付き合ったことがない。中学高校では気持ち悪いと思われていたし、大学でサークル活動なんかしなかった。職場はほぼ男一色で、小さな職場だから出会いは見込めない。
 それでも先輩が合コンに誘ってくれたりというのはまだあった。が、当然脈はなかった。
 出会い系サイトに出入りするようになり、その中で何人かとは会ったりもした。男性と会うこともあった。しかしいずれも二度目はなかった。

 そんな中、一人だけ二度目がある女性がいた。
 再会のちょっと前、職場の先輩から『からだの声を聞きなさい2』というスピリチュアル本を借りて読んでいた。「自分本位に生きていいんだ」、そう腑に落ちて、自分いじめを少しずつ緩めていった。もう人並みに稼いで人並みに家庭を持つことを自分に強要しなくていいんだ、少ない稼ぎだけどおこづかいと考えれば十分だ、好きに生きよう。そう思った矢先だった。
 再会できた彼女、これも執着を手放したから得られた出会いかと思うと、不思議な感覚だった。自己否定、自己矯正の中にあって、努力しなければ報われないという呪いから、少しだけ解き放たれた一瞬だった。魔法使いにならずに済んだ。
 この女性と結婚し、夫としての自己矯正の網にまたも突っ込んでいった。しかし結婚生活は幸せだ。今までと違って、気持ちを偽らずに済む相手。手術と震災の後は服をシェアすることが増えた。

●自分を解放する

 一方で職場でも少しずつ存在感は増していた。ところが重責を担う毎に、理不尽にも直面しやすくなっていった。そしてついに私の全エネルギーを奪うような言葉を浴びせられた。15年も勤めて初めて辞めたいと思った。職場の愚痴を言うのはダサいと思っていたが、もう無理だった。
 とはいえこれまで得た信頼はある。徐々にプライベートを充実させるようにし、独立後の仕事も見つけ、円満退社する頃、ついに性自認について考えるようになった。

 私は女に生まれたかった。女として生まれ、女として育ち、女として苦労し、女として幸せになりたかった。が、それはできない。だから性転換(性別適合手術や性別移行)には懐疑的だった。
 でも、少なくとも私はバイセクシュアルだ。そう思った。男性に抱かれて幸せを感じたい。そう思う自分もいた。
 そこで色んなセクシュアリティについて調べた。LGBTうやジェンダーという言葉は少なくとも学生の頃には知っており、特段偏見はなかった。ただ、いずれも自分には当てはまらないと思っていた。それから約20年、セクシュアリティやジェンダーの世界は激変していた。
 私の性自認には依然として男もいるが女が含まれており、時折ゆらぐ。そして好きになる性は男女に限らない。Xジェンダーかつパンセクシュアル。そんな性自認に至った。

 18年半勤めた会社を辞めて、好きに自分の時間を使い、好きな服を着て、好きに見聞を広めた。スピリチュアルの修行もした。
 すると私には、いわゆるインナーチャイルドが引っ掛かっていることが分かった。催眠療法でアクセスすると、幼少期覚えていた性別不合が原因だった。私は私と結合し、インナーチャイルドを癒やすことができた。
 その完成として、親へのカミングアウトをした。
「お母さん、お父さん、私は一生懸命男として、長男として完成するよう頑張ってきたけど、本当は女だし、無理でした」
 パートナーとの間に子供ができず、10年来不妊治療をしていたが、それももう限界。私の気持ちも限界だったし、いいタイミングだったのかもしれない。
 この地に根付いて400年という我が家は、ここで末代となるかもしれないが、それは親もだいぶ前から覚悟はしていたようだった(おそらく私が落ちこぼれ始めた高校ぐらいの頃から)。

●本当の自分へ…

 その後も何度かパートナーと性自認や子供のこと、将来のことを相談した。そんな中で性別を女性に近付けることは、改めて私にとって必要なことであるし、パートナーにとっても受け入れがたいことではないことが分かった。そして…

・パートナーの腎臓の状況を見極める。
・最後に保険適用で不妊治療を受ける。
・性同一性障害の診断書を取得する。
・ホルモン治療を受ける。
・女性としての実生活経験を積む。
・性別適合手術を受ける。
・戸籍性は変更しない(離婚しない)。

 これらが確認された。
 ホルモン治療は現時点では保険適用外だし、連動して性別適合手術も保険が適用されない。また同性婚も現時点は認められていない。
 お金も潤沢ではないから、徐々に徐々にと治療を続けているうちに、ホルモン治療が保険適用になったり、同性婚が認められるようになるかもしれない。そうなったらまた考えが変わるかもしれないけど、その時々で最適解を出していけばいい。

 そんなわけで私は、この歳ながら性別適合に向けて動き出しました。

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