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言葉とコミュニケーションについての哲学者のエッセー集「言葉の展望台」

本(言葉の展望台)(長文失礼します)

哲学者による言葉とコミュニケーションについてのエッセー集です。筆者の三木那由他さんは京都大学大学院を経て、現在は大阪大学大学院の講師をしています。
本書は文芸雑誌の「群像」に連載されたものを1冊にまとめたもので、哲学者の文章というと難解な物と思いがちですが、言葉とコミュニケーションを研究する哲学者のエッセーとの新聞書評を読んで興味を持ったので、読んでみることにしました。

先ずプロローグで「コミュニケーション的暴力としての、言葉の占有」を述べています。言葉の占有とは、発した言葉が本人の意図した意味と逆に相手から理解され、語り手の意思とは違う聞き手の解釈になってしまうこと。つまり相手による言葉の占有があるというものです。
例として1つの小説が紹介されていますが、そこでは妻の発する言葉が夫には全く別の意味に取られてしまいます。

次にマンスプレイニングという言葉が登場します。よく紹介される例として、美術館で絵画を観ている女性に対して、男性が近づいていき説明を始める。つまりその男性は女性が男性よりも絵画に対する知識が劣っているという先入観で説明を始めるのであり、これなど言葉こそ発しませんが、上記の言葉の占有同様に、コミュニケーションの占有ともいえるものです。

そのように読み進んでいると、突然筆者から自身がトランスジェンダーとのカミングアウトがあります。実体験として子供の頃から言葉の暴力に晒され、表面上はシスジェンダーを自らに強要していたとも述べています。
確かに後半のエッセーで登場するアンブレラタームは、トランスジェンダーの人たちと当事者としての連帯であり、第三の性を意味するノンバイナリージェンダーなどの記述もあります。
トランスジェンダーの当事者として、言葉やコミュニケーションに敏感になるのは当然ですし、それが筆者の研究対象の原点であったのかもしれません。

筆者は「会話というものは単なる情報の交換ではなく、人間の交流なのだ」と述べていますが、言葉によるコミュニケーションである会話は、冒頭でも書いたように様々な側面を併せ持っています。
言葉の表層による暴力を排除するためにも、言葉の深層を探求する必要があり、それは真に言葉によるコミュニケーションを理解しようとする手助けになるのかもしれません。
個人的には私自身も、会話を通じてこの人はどういう人なのか、相手の人格を大まかに理解するができますし、そうした人たちとの新たな出会いが、自分の人生経験にもプラスになった例は数多くありました。

それゆえに筆者のように哲学的観点から、言葉の持つ意味やコミュニケーションの意義を再度整理しながら、再構築してみるのも有意義な作業だと思いました。

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