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「男性ソロアイドル」を終わらせたのは

80年代のダンス系男性ソロについて書きたく、その流れからソロアイドルもということで、トシちゃん、慎吾ちゃん、晃司クン、(マッチ)、を中心に書いてきました。

さて男性ソロアイドル、そのカテゴリは1984-85年までにほとんど終わってしまったと言えます。それ以降はそんなに売れなかったり俳優系だったりなので。

終わらせた張本人は、藤井郁弥。

私が子どものころ、トシちゃんマッチは気が付けば既にスターになっていて、慎吾ちゃんについても世間がやたら『僕笑っちゃいます』を口ずさむ(めちゃくちゃ流行ってた)もんだから、そこから存在を知りました。

一方、晃司クンとチェッカーズは1984年に世に出て来るときにリアルタイムで目撃しました。

チェッカーズのデビューは1983年『ギザギザハートの子守唄』なのだけど、この曲を私は松居直美が歌っていたことで知っていました。私の新曲仕入れ先は専らラジオ。彼女はこぶしをきかせるような演歌風アイドルで「へー、こんな不良ソングも歌うんだ」と意外に感じながらもすっかり彼女のイメージが付き、後に男性グループが歌うのを聞いた時「へー、この人たち 'も' 、この曲歌うんだ。なになに、チェッカーズ?」といった感じでした。

「いちどレッツゴーヤングに出たんです。でも、だれも僕らのことを知らんから、客席がシラーとしとった。演奏終わってパラパラ拍手がきたけど、ヘンな感じだった。“あと3曲やらしてくれ、そしたらここにいるお客さん、総立ちにさせたる” と思ったですよ。とにかくライブやりたい。絶対に自信あるんです。」 *このとき歌ったのはB面の恋のレッツダンス
チェッカーズ (1983年10月頃取材) shueisha 1984

で、次曲の『涙のリクエスト』でドッカーン、です。社会現象でした。藤井郁弥は最強でした。

そして、売り手は気づきました。1人S級がいたら、グループとして7人までセットで売れることを。グループという「ワク」を形成し、S級を目立たせることでそのワク自体を売り、その中のS級以外も買わせることができるということを。つまり、独立したマーケットができるということ。「チェッカーズの中で誰が好き?」みたいにチェッカーズ自体が前提となって、皆がそれに乗せられる。

まあ、言うまでもなくこれって商売の基本ですが、これでリアルに分かったのだと思います。

また、4人以上となると、ジャニーズ「忍者」のような全員A級ではダメで、バラとかすみ草の方が束として売れるということも。(女性の場合はS級がいなくてもワゴンセールのような多売ができるみたいですが。)

これで男性ソロアイドルのカテゴリは終わりを迎えた、と私は分析します。

藤井郁弥は特別でした。カッコイイ、可愛い、そしてなにより歌上手い、これらがそろった80年代で初めての存在でした。彼自身は元々別にアイドルになりたかったわけではないだろうけど、あのビジュアルがそうさせてしまった。

これでジャニーズ離れが起きあおりを食らったとされていますが、私は一番食らったのは晃司クンだと思います。チェッカーズのブレイクと彼のデビューは全くの同時期。チェッカーズがいなかったら、あの位置に居れたのは晃司クンだったはず。彼も十分インパクトあったのに、本来もっと持てたはずの新顔シェアの割合をチェッカーズに持って行かれた。あと、慎吾ちゃんも。反ジャニ派のカッコ可愛い系支持層が、藤井郁弥に移っていきました。

藤井郁弥は全てをかっさらっていきました。それまでの並み居るアイドルは、郁弥ひとりに風向きを変えられてしまいました。

久留米はすごすぎる。芸能界の歴史を変えた聖子と郁弥が同年代で同一の地から出るなんて。広島だってすごいのに。福岡は最強。


☆彡


【追記】もうひとつは「風見慎吾」説。あれだけのダンスをされてしまったら、「歌って踊る事務所」ジャニーズとしてはそれ以上のことをしないと面目が立たない。だけどソロではかなり困難ということで、その後グループばかりに。複数人だと息が切れても歌が下手でもユニゾンでカバーできるし。トシちゃんはアクロバット要素のないブロードウェイ系に振り切った道へ。たとえバックダンサーを付けたとしても踊る上でいかにソロ歌唱の負担が大きいか分かってしまったので、慎吾ちゃんの出現以降、団体競技となっていきました。