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どうして晃司クンはできなかったのか

晃司クンができなかったこと。時代を超えても多くの人が思うのが、
「どうして1984年の大みそかに、あれを受賞できなかったのか」。

それについては後ほど記したいと思います。

一方、あまり言われていないけど、私はコレを声を大にして言いたい。
「どうして1984年の大みそかに、あれに出場できなかったのか」

デビュー曲『モニカ』をあれだけヒットさせて、他の2曲も年間ベストテン50位以内。新人歌手として出場した時のトシちゃんマッチほどの売上ではなかったけど、シブがき隊の時よりずっとインパクトがありました。 彼らは新人の年に出てるのに、晃司クンは出場できませんでした。

紅白。

この時代の出場者は男女20組ずつ。「出場歌手希望世論調査」の結果では、晃司クン男性12位になってる!  なのに、上位15位内で出場できなかったのは晃司クンだけ。

初出場男性歌手は、舘ひろし『泣かないで』 、芦屋雁之助『娘よ』、そしてチェッカーズ『涙のリクエスト』…。

そう! 『モニカ』はザ・ベストテンに9週もいて2位にまでなったのに、その間ずーっと1位、あるいは真上に『涙のリクエスト』がいたのだ。壁のように。もし1位を取れていたら印象は全然違っていただろうに。

ヒット曲ひしめく84年で『モニカ』は年間ベストテン13位と大健闘。それより上位にはチェッカーズ、明菜、聖子、五木ひろし、アルフィー、安全地帯、わらべ『もしも明日が』、芦屋雁之助、石川優子とチャゲ『ふたりの愛ランド』と 男女合わせて9組しかいないジャニーズの誰もいないのだ。

晃司 自信ありsmall

shueisha 1984

なぜだったんでしょうね。理由が見当たりません。まぁ大昔の話で、実は数十年間全く忘れていたんですけどね。なお、翌1985年に初出場しますが、ご存じの通りインシデントがありました。

もうひとつの、大みそかの疑問。最優秀新人賞。

テレビの前で、当時ローティーンの子供ながら「大人の事情」というものを目の当たりにした気がしました。チャート、売上、ランキング歌番組出演、話題性、認知度、勢い、つまり実績人気ともに、どう取っても晃司クンは「圧倒的」でした。差がありすぎました。受賞した女性歌手のファン以外の人々は発表を聞いて狐につままれたような気がしたのではないでしょうか。

大みそかのお茶の間に流れた不思議な光景。その前に行われたいくつかの賞レースの動向からうっすら気配はしていたものの、いざそうなると正直なところ「ハァ?」といった感じでした。

私が晃司クンのファンだったというのもあるかもしれませんが、仮にファンでなくても、上記の客観的事実からして疑問に思ったことでしょう。

ただ、受賞した本人の方が辛かったと思います。これが能天気な人だったら何も感じず手放しで喜ぶでしょうが、聡明で常識的な人だったそうだから、多くの人から納得されていないこと、明らかな数値的実態に反して表彰されること、その不自然さが自分でも分かってしまい、いたたまれなかったのでは。「Aさんは90点、Bさんは75点。一等賞はBさん!  Bさん、皆さんの前へどうぞ! 」と言われているようなものだから。

そこには無理がありました。

なぜそんなことになったか。私なりの分析を。

過去4年も男性が受賞。しかもジャニーズが続いて、そろそろ女性に取らせないと、という空気。そして、80年と82年の失敗。歌唱力のないトシちゃんとシブがき隊が受賞したのち、歌唱力のある女性歌手(聖子、明菜)が飛躍した。賞の権威を保つため、同じ轍を踏まないよう実績はいまひとつだけど無難にそこそこ上手いその女性歌手に与えておこう、「将来性うんぬん」と理由をつけて、というところだと思います。晃司クンの歌唱法は非正統的、人気は一時的熱狂、と選考委員のお偉いさんたちに理屈づけされたのでしょう。

実際、彼女に票を入れた会場の審査員から、「女性歌手特有の成長の仕方」とか「今後、松田聖子さんや小泉今日子さんのように」といった期待をしているとの発言がありました。

しかしながら、彼女は女性歌手ではあるけれど、聖子ちゃんでも明菜ちゃんでもキョンキョンでもない別の人間、ということが事実であり真理です。

また、彼女に賞を取らせたい所属事務所と、晃司クンに取らせたくない某事務所との利害の一致による協同もあったかもしれません。

結局、受賞者は2年で歌手活動を終えることとなり、晃司クンは時代を超え長きに渡り歌い続けることとなりました。