見出し画像

ハンニバル戦記-②戦略を実行する

前回記事でハンニバルが立てた戦略を紹介した。ただし、戦略は実行されなければ机上の空論に過ぎない。以下のステップに沿って、どのようにこの戦略が実行されていったのかを見ていこう。

<ハンニバルのイタリア侵攻戦略>
STEP.1:
アルプスを越えて、北部イタリアに電撃的に進軍する。
STEP.2:北部イタリアにてローマ軍との初戦に勝利し、ガリア人勢力を味方につける。
STEP.3:中部イタリアにてローマ主力軍を撃破し、ローマ連合軍の動揺を誘う。
STEP.4:南部イタリアにてローマ主力軍を再び撃破することで、同盟都市の離反を誘う。
STEP.5:離反した同盟都市と共にローマ本国を叩き、絶対的有利な条件で講和し、地中海の制海権を奪取する。

STEP.1 アルプス越え

ハンニバルとその軍団の目の前には、アルプスの山々が岩の壁のごとく迫っていた。季節は9月。山中ではすでに初雪が散らつき始めていた。兵力は歩兵3万8000、騎兵8000、象兵30。このような大軍団を率いてアルプスを越えた者は、この時点では皆無である。この200年後にカエサルがイタリア側から、2000年後にナポレオンがハンニバルと同じ方向から越えることになる。

ハンニバルに付き従ってきた兵の心境はいかなるものであったか。不確実な先行きに対する不安と恐れか。誰も成したことのない偉業に挑む高揚感か。山間に住む部族の襲撃を時に退け、時に懐柔しながら谷あいへと進む。道は狭く険しくなる。凍った山道に新雪が降り積もる。総司令官であるハンニバルは、兵と共に凍った食事を食べ、崖下で陣幕を体に巻き付けながら仮眠をとった。

アルプスに入って9日目、ついに峠を越え、はるか彼方にかすむイタリアが見えた。だが、下りはさらに困難を極めた。季節はさらに厳しくなり、凍死する者、転落死する者が後を絶たなかった。

アルプス越えは15日かかったという。ついにイタリアの地に降り立った時点で、ハンニバルの軍勢は2万の歩兵と6000の騎兵、20頭の戦像に減っていた。この前人未踏の行軍で2万もの兵を失うことになった。ここまでの損失は、ハンニバルの計算のうちに入っていたのだろうか。それは本人のみぞ知るところだが、イタリアに入りローマを打倒するには、このルートしかないという確信を持って立てた戦略である以上、それを完遂するのみである。

そして、アルプスを越えると同時にハンニバルが手に入れたものがある。大勢の仲間の死を越えて偉業を成し遂げた軍の結束と、それを不屈の精神で成し遂げたリーダーへの絶対的な信頼である。

STEP.2 トレビア川の戦い

北イタリアに降りたったハンニバルがまずすべきは、この地のガリア人を仲間に引き入れることだった。当初の見通しは暗かったが、前哨戦となった小競り合いでローマ軍を鮮やかに破ったことから、徐々にハンニバル側へと奔るガリア部族が増え始めた。一方、ローマ軍はトレビア川東岸へといったん退く。

そして、ハンニバル軍とローマ軍との最初の会戦が、北イタリアのトレビア川沿いで行われた。ハンニバル軍は手勢の2万8000にガリア兵を加えた3万8000で、うち騎兵が1万。ローマ軍は計4万で、うち騎兵は4000。兵数ではローマ軍が優っているが、騎兵の数はハンニバル軍が優っていた。両軍がトレビア川の両岸に陣を張り、睨み合った。季節は12月。川の水は凍てつくほどに冷たい。

ここでの勝利の意味は、この地に住むガリア部族の信頼を勝ち取ることにある。ハンニバルとしては、イタリアへの本格的進攻の前に味方を増やすためにも、是が非でも勝たねばならない。ローマにとっても、ローマ軍の屈強さを示すことで、これまで度々反乱を起こしてきたガリア人を押さえつけねばならない。

ローマ軍の司令官は、二人の執政官のうちどちらかが日替わりで担当するしきたりである。前哨戦でコルネリウス・スキピオが怪我を負っていたため、この日はセンプロニウスが指揮を執った。センプロニウスは平民出身の執政官である。平民階級から選ばれた者は、その階級の支持を背負って戦うことになる。必然、強気に出ることが多い。当然ハンニバルは、その点の情報収集に抜かりない。センプロニウスが誘いに乗ってきやすいことを見抜いて、作戦を立てた。

ハンニバルは、戦い前夜に弟のマゴーネに2000の兵を与え、あらかじめ南方に潜ませておいた。そして戦い当日の朝には、兵士に十分な食料を与え、渡河に備えて体に油を塗り、暖を取らせておいた。その後、一部騎兵を渡河させ、東岸のローマ軍を奇襲させた。

ローマ軍は、相手が少数の騎兵のみと知るやこれに襲いかかる。騎兵は次第に押され、川を戻りながら退却していく。センプロニウスはこれを機と見て追撃を命じ、ローマ軍は勢いに乗じて川をずぶ濡れになりながら渡っていく。突然の襲撃だったため、ローマ兵は食事もとっておらず、川の水は身を切るほどに冷たい。まんまと小競り合いから戦闘に引き込まれた形になった。

そこに万全の準備を整えたハンニバル軍が待ち構えていた。ローマ軍は押し返され、援軍を求める。ローマ軍は全軍渡河すると体勢を立て直し、重装歩兵による中央突破を図った。その突進力はすさまじく、ハンニバル軍の歩兵を押し込んでいく。

しかし、数で優る両翼の騎兵がローマ騎兵を蹴散らす。このタイミングで南に潜ませておいたマゴーネの別動隊が背後に回る。ローマ軍は包み込まれるように、三方から攻撃され、大混乱に陥った。こうしてトレビア川の戦いは、ハンニバルの圧勝に終わった。ローマ側の戦死者は2万。ハンニバル側の戦死者の多くは、ほぼ中央に配置されたガリア人のみで、子飼いの部隊は温存された。

トレビア川の戦い・布陣図

この戦いの勝利により、日和見を決め込んでいた北イタリアのガリア部族は一斉にハンニバルの許に集結し、軍はたちまち5万に膨れ上がった。完全な形で戦略の遂行が成されたのである。

さらにハンニバルは、STEP.3以降に向けた手を打つ。捕虜としたローマ軍のうち、同盟市の兵士を自由にして故郷に戻した。イタリア同盟市の切り崩しへの布石を打ったのだ。

STEP.3 トラシメヌス湖畔の戦い

トレビア川での勝利後、ハンニバルはローマに向かってイタリア中部に進軍した。ローマに至る道は二つある。一つはボローニャからリミニまで平原地帯を南下する道。もう一つはアペニン山脈を越え、トスカーナ地方を降る道。ローマとしてはハンニバルの意図が読めない以上、執政官それぞれに二個軍団を預け、兵力を分散するしかなかった。

ハンニバルはより困難な後者の道を選んだ。なぜなら、ハンニバルは次の戦場をエトルリア人が住むトスカーナ地方と決めていたからだ。彼らの目の前でローマ軍を鮮やかに破り、ローマ連合の切り崩しを図るためである。

行軍途中、雪解け水による沼地にはまり、多くの兵と自身の片目を失いながらもフィレンツェに到着した。そこで執政官フラミニウスが率いる2万5000の軍団が、100km先に駐留していることを知る。この軍が次のターゲットとなった。

ハンニバル軍は南進し、なんとフラミニウス軍の西を通り過ぎて、そのままローマ方面へ行軍していった。フラミニウスはリミニに駐留しているもう一人の執政官、セルヴィリウスの軍に連絡し、挟み撃ちにすべくハンニバルを追った。

ここに中部イタリア最大の湖であるトラシメヌス湖がある。ハンニバルは斥候を放って、この土地の地形や特徴をあらかじめ調べさせていた。各隊は指示された場所で野営し、この夜は火を焚くことを禁じられた。

明朝、フラミニウス率いるローマ軍が、湖畔沿いの道に足を踏み入れた。この時期のトラシメヌス湖畔は、しばしば朝霧が発生する。ハンニバル軍が先に進んでいると思い込んでいるローマ軍は、行軍スピードを上げた。全軍が細長い湖畔沿いの道にすっぽりと入った時、東端にハンニバル軍の騎兵が待ち構えていた。さらに、西側の出口も別の騎兵がふさいだ。そして、丘陵の林に隠れていた歩兵が一斉にローマ軍に襲いかかった。

後は一方的な殺戮となった。全方位を敵軍と湖に囲まれたローマ2万5000の軍団のうち、執政官フラミニウスを含む1万7000が戦死。無事ローマにもどれたのは2000に過ぎなかった。一瞬にしてローマは、全軍の二分の一を失うことになったのである。

Battle of Lake Trasimene, Hannibal's ambuscade

勝利後にハンニバルは、「自分はローマに対して戦っているのであり、抑圧されたイタリア人と戦っているのではない」と伝え、同盟都市の捕虜を解放した。イタリア同盟都市のローマ連合からの離脱こそが、イタリア侵攻戦略の要だからである。

トラシメヌス湖からわずか三日行軍すれば、首都ローマを突くことができる。今ローマは、軍の大半を失い動揺している。誰もがローマに向かうと予測したが、ここでハンニバルはアドリア海沿いに南イタリアへ抜けるルートを選択した。なぜか。まだローマ同盟都市の離反が出ていなかったからである。ローマは大きな要塞都市であり、すぐに落ちることはない。囲んでいるうちに背後を同盟都市の軍に囲まれれば、成すすべがない。この戦略の成功には、同盟都市の離反によるローマ連合の解体が絶対なのだ。それを確実なものとすべく、ハンニバルの戦略はSTEP.4へと向かう。

STEP.4 カンナエの戦い

大敗を喫し、かつてない危急存亡の時を迎えたローマは、クィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に任命。ファビウスは、ハンニバルと直接戦うことは得策ではないと考え、持久作戦に持ち込む。徹底的に決戦を避け、ハンニバル軍を干上がらせるために、進軍先の農地を焼き払い焦土作戦を展開した。

しかし、これは評判がすこぶるよくなかった。後に「ローマの盾」と称えられたファビウスだが、この時は「持久戦主義者」と呼ばれ、それは暗にくず、のろまを意味した。

ローマという国は、そもそもがきわめて好戦的で、戦闘で勇敢に戦うことを何よりの誉としてきた。要するに持久作戦は、戦略的には正しくても、ローマのカルチャーに合っていなかったのだ。「組織は戦略に従う」とは経営学者チャンドラーが唱えた言葉だが、「戦略は組織に従う」もまた真なり。

こうして再び決戦へと流れ込む。ローマはこの間兵を増強し、総勢8万もの大軍をそろえた。ハンニバル軍は総勢5万。ただし騎兵はローマ軍6000に対し、ハンニバル軍1万と優っていた。両軍がカンナエの地で向かい合った。

ここでのハンニバルの勝利条件は、僅差での辛勝ではない。アウェーで戦い続けている以上、自身の部隊を残したままローマ軍を殲滅することが求められる。そして、イタリアの地で決定的な勝利を見せつけることで、同盟都市の雪崩的な離反を促すことを条件としている。それを戦略と呼べるのか疑いたくなるほどに、分の悪い賭けに思える。

カンナエの戦いは、戦史上燦然と輝く包囲戦の金字塔として、軍事教本に必ず取り上げられる大会戦だ。寡兵のハンニバル軍が、芸術的なほどに巧みな戦術によってローマ軍8万を包囲殲滅した。ここで詳しい戦術の解説はしないが、当初中央で優勢に戦いを進めていたローマ軍は、気がつけばふわりと網で絡み取られるように四方から包囲され、押しつぶされながら全滅した。おそらく当のローマ軍の指揮官も、戦っていた兵たちも、なぜこのような状態になったのかわからないまま戦死していったに違いない。ローマ軍の戦死者は5万を超えたという。歴史上類を見ない、ハンニバルの完璧な勝利であった。

Second Punic War, The Battle of Cannae

ここまでハンニバルは、STEP.1からSTEP.4まで自身が描いた戦略を理想的な結果で実行していった。ローマは完膚なきまでに叩き潰された。後にも先にも、ローマがここまで追いつめられたことはない。まさに滅亡の淵に立たされていた。

STEP.5 停戦に向けて

これでハンニバルの勝利となっていれば、歴史は違っていただろう。ハンニバルは待っていた。この完璧なる勝利の報が、イタリア全土、地中海世界全体に広がり、雪崩を打ってローマ連合が瓦解することを。そして、ローマが首を垂れて、和平交渉につくことを。ハンニバルには、ローマを滅ぼす意図も、南イタリアを切り取る意図もなかった。ローマ連合が崩れた圧倒的優勢下で講和し、カルタゴの手に地中海の覇権を取り戻すことが、最初からイタリア侵攻戦略の目的であった。

だが、南イタリアのわずかな都市を除き、同盟都市はローマを見放すことなく、ハンニバルに門を閉ざしたままだった。そしてローマ側は、この状況においても講和することを拒否し、2000人の捕虜の返還を拒否してまで、戦争の続行を選択したのだった。捕虜兵は全員奴隷として、他国に売り渡された。

なぜこの時点で、多くの同盟都市はローマ連合に留まったのだろうか。同盟諸都市は、ローマ連合体制につくか、カルタゴ国家体制につくかを冷静に天秤にかけていた。ハンニバルはカルタゴの将軍に過ぎず、いずれイタリアから去るだろう。一方ローマは、征服した敗者を叩かず自分たちに同化していく性質を持っている。すでにこの時同盟都市との間に、軍事力による強制支配を越えた、運命共同体ともいえる紐帯を築いていたのだ。

そして、滅亡の危機にも決して折れない不屈の精神を、この時代のローマは持っていた。カンナエでの敗戦後、敗将ウァッロがローマに帰還すると、元老院議員を始めとする全市民が出迎え労をねぎらった。彼を非難するものは誰もいなかった。果たして5万人以上の兵を失った将を寛容に迎え入れることができる国が、歴史上ローマのほかにあっただろうか。兵は傭兵ではなく全員ローマ市民兵なのだ。カルタゴならば、敗将は死罪である。今ローマのためにすべきことは何かを全員が理解し、挙国一致していた。驚愕すべき国家である。

つまりは、ハンニバルに敗れたとて、ローマは国家として、組織として、カルタゴに優ったのだ。この後、最後までカルタゴは挙国一致でハンニバルを支援することができなかった。地中海周辺での戦いは、シチリア、スペインでローマが勝利し、次第にイタリア本土でもローマが優勢になっていく。

最終的には、カルタゴ本国に進軍した若きスキピオ・アフリカヌス率いるローマ軍との戦いに、ハンニバルは敗れた。この戦いでスキピオが用いた戦術は、ハンニバルから学んだ騎兵による包囲殲滅戦術だった。ローマは敗戦の中で結束を強め、若いリーダーを輩出し、敵からも学び、国家として成長していった。こうして第二次ポエニ戦争は、ローマの勝利で幕を閉じた。

◇ ◇ ◇

戦略とは、細い理を紡いでつくった、目的を実現するためのストーリーである。実行者は、確信を持ってその戦略に身を投じ、絶え間なく情報を集め、刻々と変化する状況に応じた戦術を練り、折れない意志で遂行していく。そして歴史が示すように、戦略を完璧に実行したとしても、勝利するとは限らない。その時は、戦略に殉じて滅びるほかない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?